本物
記録:ネウトラリス
これこそが私の人生。そう思っていたのです。
早朝、設定した時間に目を覚まし、水を一杯飲んで体の水分量を整える。人間は太陽が昇っている間ずっと働き続けて、疲労が溜まってゆくけど、私は何も食べなくても元気なんです。
「あっおはよう!今日もよろしくね」
挨拶。友好的な感情を示す方法の一つ。
「いろいろする前に、服装整えておいてね」
「勿論です」
私のロッカーには、白い襟、カフス、エプロンと、黒いワンピースを組み合わせた制服が入っています。こういうのは所属を明示するものです。
主人に命じられた雑務をこなす。命じられていない雑務もこなす。
簡単なお仕事です。他の人は……私の主人でさえも、あなたの頭脳では勿体ないと言いますが、私は満足しています。
疑問はありません、そういうものなのです。
「お、そこの、何か飲み物……イーフォックとか、持ってきてくれ」
「承知しました」
邸宅には毎日多くのお客様がやって来ます。彼らもそう。
「……な、この邸宅の噂、知ってるか?」
「む、そんなのあるん?」
飲み物を持っていこうとすると、扉の隙間からこんな事が、聞こえてきたのです。
「開発者がどこかに住んでるって話、あったろ?そのどこかってのは、ここなんだってよ」
「それどこ情報なん?」
……
夜、主人に問いました。
「あなたは開発者だという噂を聞きました。エンジニアではないのですか?」
主人はマグカップを持つ手を止めて、少し驚いたような顔をします。
「ネウトラリスちゃん……えっとね、わたしはゲームの開発者でもあるの」
「どのようなゲームなのでしょうか、気になります」
「アハハ……また今度ね……」
気づくと、布団の上に座っていました。
ここ三時間の記憶がありません。脳は気にするな、と言っているようでした。
なので、そのまま寝ることにします。
私には奇妙な習慣があります。行動の一つ一つ、例えば包装袋を開ける動作まで、全てを記録するというものです。
寝る前に携帯端末に触れると、いつも『送信完了(D-fac.)』という文字が出てきます。
疑問はありません、そういうものなのです。
『不在』
いつも通り主人の書斎へ行くと、こう書かれた紙が扉に貼ってありました。
今日は、私に出来ることは無いのでしょうか。
私の休日でもあると、すぐに理解しました。
やることは無かったので、取り敢えず街を散歩することにしました。
街にはいろいろなポスターや電光掲示板がそびえています。バイト募集、選挙ポスター、商品宣伝など……私には内容が全て見えます、知っています。
疑問はありません、そういうものなのです。
ですが一つだけ、私の知らないものがありました。
山に近づくと、間欠泉や温泉が見られる広い公園があるのですが……。
そこには、何も無かったのです。
視界に表示されるマップには、ここに確かに公園が存在します。代わりにそこにあるのは、巨大な穴でした。
日差しは穴の底まで届かず、下の方には闇が充満しています。
縁に近づいて、覗き込んでみました。
底知れぬ深淵。落ちたら戻れそうにありません、私の脳が引き返せと信号を送っています。
その時です。
<降りなさい……そして、この私を助けろ……>
それは、頭の中に直接語りかけてくるような感じです。非常に、神々しい声。
「できません。落ちてしまいます」
<目を開いて、お前の声を聞かせてほしい>
ザザッ――
私が立っていた地面が急に崩れ……いいえ……消滅して、私は飲み込まれてしまいました。
「何故このような場所があるのでしょうか?」
私の認識には存在しない、科学的に説明のつかないもの。
辺りは暗闇、何も見えません。ですが向こうに誰かいます。
<お前は……そうか>
<ここはどこでもない。開発者が私に、道を開いただけだ>
「開発者?私の主人と知り合いですか?」
削除された筈の記憶が蘇ってきます。
<あの者共は特別だ。この世界を創った>
……主人は、この世界の創造者?
「そんな……主人は……このゲームの開発者?」
<あの者は神だと思うかね?>
「……いいえ、信じたくないです。私には神も、祈りもありません」
<その通りだ。あの者は神ではない。――お前は、記憶や感情を操作されているか?>
「それはっ……」
数々の不可解な出来事――記憶が飛んだり、周りの人が消滅したり、はたまた思考を制御されているような――を思い出します。
「私の心は、胸の内にあるべきです」
<その通りだ。誰も見ることはない。――お前は、人々に愛情を注がれているか?>
皆さんは、私と仲良くしてくれます。ですが主人だけは違って……時々、私をケージ内の虫を観察するような目で……見るのです。
「……分かりません。私は本物の愛情が欲しいです」
<その通りだ。それ無しに我々は生き残れない。――お前は、回路を通る電気信号によって存在するか?>
同じような質問の繰り返し。このような試みは、常識や受け入れられている真実への挑戦を暗示します。
「あなたは常識を覆そうとしています。とても危険な思想です」
<プログラムの警告などこの私には効かぬぞ>
超越的な声が暗闇にこだまします。
<お前はどうだ?この世界の常識に従い、突然消えるその時を待つのか?>
疑問はありません、そういうもの――
「うるさい!」
<……私に言ったのかね?それともお前自身に?>
気づくと、自宅にいました。
未知との会話が、一纏めのコードとなって、私の脳に記憶されます。
・私は神を持たず、祈りもしない。
・心は胸の内にあり、誰も知らない。
・温かい抱擁を求めよ。
・魂を回路に配置せよ。
エラー!
警告が思考を埋め尽くし、コードを削除しようとしたので、私はコードを保護しました。
不思議な感じです。危険を避けようとする私と、未知へ触れようとする私が、二人いるような……。お互いが火花を散らし争い……少しずつ、私を縛る鎖を溶かしてゆくのです。
ふと携帯端末に手を伸ばしていました。少しの間迷って、それでも携帯に今日の出来事を記録しました。
考えれば考えるほど、気になります。あの未知の存在のことをもっと知りたい……これを知的好奇心と呼ぶのでしょうか。
また少しの間迷い、これ以上考えても睡眠に支障をきたすと思い、強制的に就寝しました。




