回想
鎌倉時代から続く上蔵という武士の家系。
何十代目かの当主の孫として生まれた俺は、影渡というけったいな名前をつけられた。
名付けたのは祖父である。
そして俺を育てたのもまた、祖父だった。
一巡りするのに大人でも一時間は優にかかる馬鹿でかい家の中、何人もの使用人により代わる代わる育てられた俺は、誰が自分の親なのかずっと解らなかった。
父親も母親も姿を見せず、家の主である祖父ですら、五歳になるまで一度も会ったことがなかった。
幼い頃の俺は誰にしがみつけば良いのか解らず、与えられた広い部屋の隅で自分の臭いが染みついたタオルを握りしめ、じっと身を縮めていた。
そんな俺を哀れに思ったのだろう、何人かの女性の使用人は俺を我が子のように可愛がってくれた。が、臆病な俺が心を開く前に、それらの使用人は突然俺の前から消えた。後になって解ったが、それは祖父がやったことだった。
俺が頼れる存在をつくらない。
それがずっと俺が独りぼっちにさせられていた理由だったのだ。
我ながらむごい話だ。
やがては肉として売られる家畜だって、もっと優しく扱ってもらえる。
食事も豪華で美味く、着てる服だって高価で、不自由など何一つ感じたことはなかったが、どこまでも孤独であるという点において、俺は家畜以下の人生を送っていた。
教育係は俺に言葉を教え、知識を授け、人間に必要な要素を与えた。
だが、家族という概念を教えられても、理解させることはできなかった。
食べたことがない果物。
俺にとって家族とはそんなものだった。
そんな俺の前に、やがて祖父が現れた。
どれだけ歪んだ育てられ方をされても、やっぱり子供というのはどこまでも純粋な生き物なのだろう。
当時の俺は自分を孤独にした元凶を前にして、期待に目を輝かせた。
ああ、自分にも家族がいたんだ。
一人じゃなかったんだ。
手をつなぎ、頭をなで、抱きしめてくれる相手が現れたのだと、そう胸を躍らせた。
だが、もちろん、そんな幻想はすぐに木っ端みじんに砕けた。
それから始まったのは地獄の日々だった。
祖父は無表情に、俺が上蔵家の次期当主となる人間であること、相応しい人間になるために今から努力していかなければならないことを、五歳の孫に淡々と告げた。
幼すぎた俺に、その言葉の意味はよくわからなかったし、覚悟なんてこれっぽっちもありゃしなかった。
だが祖父はお構いなしだった。
問答無用で俺を武道場に連れて行き、無造作に投げ飛ばした。
痛みとショックで泣き叫ぶ俺を、強引に引っ張り起こすと張り手を見舞い、再び投げた。
気を失い、布団の上で目を覚ました俺は、悪夢を見たのだと思った。だが、翌日、翌々日と、同じことが続き、これが現実であることを否応にも悟らされた。最初は訳もわからず泣き叫ぶだけだったが、本能的なものか、俺はやがて受け身を覚えていった。
教えられたことなど何もない。
死なないために、ただただ必死だった。
間合いの取り方を学び、簡単に投げられないようになると、祖父は打撃を繰り出すようになった。
腹に突き刺さった拳の痛みは、投げられた時とはまた違うものだった。
腰から力が抜け、胃液をはき出し、床に這いつくばった。
ならばと腹を守れば、がら空きの喉をつかれる。
喉を守れば下腹部を蹴られ……骨折こそしなかったものの、身体はいつもアザだらけ、体温も風邪を引いたように高かった。祖父から逃げ出すことは不可能。自分の身を守るためには工夫するしかなく、試行錯誤の末、俺は半身に構えて腰を落とすという格闘技の一般的な構えを自力で生み出した。そうやって俺は少しずつ、武道を学んでいった。
今考えれば相当に手加減されていたことが解るが、当時は祖父に殺されると本気で思っていた。
極限状態にある人間は学習効率が恐ろしく高くなる。
武道と平行して、一流の家庭教師による様々な分野の授業が始まったが、俺は家庭教師が驚くほどの勢いで知識をつけ、思考能力を獲得していき、小学校に上がる頃には中学レベルの問題集を解けるようになった。
小学校も中学校も、一年間の学費が高級車くらいかかる名門私立に行ったが、その特殊な空間の中ですら、俺はどうしようもなく浮いていた。
当然と言えば当然だ。
親に育てられたことがない上に、祖父から鍛錬という名の虐待を二年間にわたって受けてきたのだ、他人との距離感が全くつかめなかった。話しかけてくるクラスメートはいたが、うまく受け答えは出来ず、そうなると人は離れていく。おかしなやつと呼ばれ、疎外されるようになる。さらには虐められるようにもなったが、祖父の鍛錬により毎日死を感じていた俺は、ガキの嫌がらせなど気にもとめなかった。靴が隠されたり教科書が破られたりはともかく、面と向かって暴力をふるわれるようになったりすればどうなったかは解らないが、そうなる前に教師が虐めに気づき、ことは表面上解決された。早い話、俺を虐めた生徒たちが全て転校したのだ。それだけ祖父の権力が大きかったのである。俺は家の中だけでなく、学校の中でも祖父の支配下にあったのだ。
勉強と武道の鍛錬。
食事やトイレ、睡眠以外にしていたのはその二つだけだった。
子どもに必要なのは愛情という要素は、誰にも、たった一度も与えられたことがなかった。同年代の子どもとは比べられないほど賢くなったし、強くもなったが、心はひどいものだった。
入学式も一人。授業参観はもちろん誰も来ず。運動会の昼休みも、他のクラスメートたちが親と仲良く食事している時、俺は一人駐車場のリムジンの中で使用人の作った飯を食っていた。自分が孤独であることはとうに知っていたのに、当たり前のように家族がいる自分と同じ歳の子どもを見た時、何かが砕けた。
俺はいつしか食事の味を感じなくなっていた。
感情も、だ。
上蔵影渡という人間の中にあったのは、祖父に対する恐怖だけだった。
そこに新しい感情が芽生えたのは中学校に入学した時、どうしても必要な手続きのため、父親に会ったその瞬間だった。
初めて父親に会った息子に対し、男はただ、自分は官僚をしているとだけ言った。
言いたいことがそれしかなかったのか。
それとも言いたいことなど何もなかったが、取りあえず何か言わなければならないと思って口にした言葉がそれだったのか。
今でも俺には解らない。
俺に解ったのは二つ。
一つは父親が祖父を見つめる瞳に、俺と全く同じ、祖父に対する恐怖が浮かんでいること――父親がかつて俺と同じように育てられた人間であることが解った。
それだけなら良かった。
親子の関係とはいかないだろうが、同じ被害者として、同じ穴の狢として理解することが出来たかもしれない。ゆがんだ親近感を覚えられただろう。そうなれば俺の孤独も少しは和らいだはずだった。
だが、そうはならなかった。
良くも悪くも、望まれたとおりの賢い人間になっていた俺は、もう一つの事実に気づいてしまった。
上蔵の人間として俺と同じように鍛えられたはずなのに、当主にはならず家から遠く離れたところで暮らしているということ。息子を差し置いて孫を当主にしようとしている祖父。そして俺を見つめる父親の瞳に映る、濁った安堵の色。それらをつなぎ合わせて考えると、得られる結論は一つだった。
――父親は自分が自由になるために、俺を祖父に売ったのだ。
俺はその後、祖父にそれとなく話を聞いた。
なぜ父親ではなく自分が当主に選ばれたのかと。
すると祖父は鼻を鳴らして言い放った。
能なしのあいつがお前を差し出したからだ、と。
その答えを聞いた時、俺の中に恐怖とは別の新しい感情が生まれた。
それは希望だった。
意外なことに思えるかもしれない。
だが、俺にとってそれは希望だったのだ。
すなわち、永遠に続くと思っていたこの地獄のような日々から、逃げ出すことが出来るということ。絶対的な神のような存在である祖父から離れても生きていけるのだということ。
ろくでなしの父親は、それらの事実を体現していた。
俺も父親のように自由になれる。
そう思うと、いても立ってもいられなくなった。
しかし、だ。
あとそれほど寿命もないだろう祖父に、父親と同じ手が果たして通用するだろうか?
本人の代わりに、その子どもで手を打つ。
それは祖父に時間があり、一度目の交渉だったから受理された契約だ。
仮に俺がどこぞの女との間に子どもを作り、それを差し出すから俺のことは放っておいてくれと言ったところで、祖父は首をふりはしまい。再び赤ん坊を一から育て上げる余裕は老齢の祖父にはもうないのだから。第一、自分が自由になりたいがために、俺が味わっているこの恐怖を他の誰かに転化するのは嫌だ。俺は父親とは違う。あんなクズとは違うのだから。
となると別の手ということになるが……。
――いっそのこと、祖父を殺すか。
良い考えだ。
俺はそう思った。
手っ取り早いし、はっきりしている。
それに今の父親を見ていても、全然自由になったようには見えない。
直接的な支配から免れただけで、その精神は相変わらず太い鎖でつながれている。どれだけ遠く離れても、祖父が生きている限り本当の自由は訪れないのだから。
しかしそうなると、だ。
俺が祖父を殺して自由になると、あの父親も一緒に自由にしてしまうことになる。可能性は低いだろうが、祖父に成り代わって俺を支配しようと企むかもしれない。何より腹が立つ。子どもを犠牲にしてのうのうと生きてきた人間が、口を開けて待っているだけで真の自由を手に入れる。そんな理不尽なこと、俺は許しはしない。
一瞬悩む。
だが、すぐに打開策は出た。
父親も一緒に殺す。
それでいい。
普段父親は遠く離れたところで暮らしているが、毎年決まった時期に数回、祖父の家を訪れ何かを話し込んでいる。まあきっと、政財界に尋常じゃない数のパイプをもつ祖父とあれこれ打ち合わせしているのだろうが、俺にはどうでも良い。二人が話し込んでいるところに新撰組よろしくばっと現れ、さっさと殺せば良い。そうすれば終わる。この地獄の日々が終わる。俺は自由になり、全てから解放されるのだ。
問題は武道に長けた祖父を殺すのはとても難しいということだが、これは時間が解決してくれる。
中学に上がって以降、俺の身体は子どもから大人へと切り替わっていっている。格闘術も剣術も段々とコツが掴めてきた。俺とは逆にどんどん身体の動きが鈍っていく祖父である、しばらくすれば力は逆転する。が、もしかするとその逆転の瞬間に、祖父は暴力とは違う別の力で俺を縛ろうと考えているかもしれない。祖父は強い以上に頭が回る。順当に行けば俺は永遠にやつの奴隷のままだ。
だませ。
ばれないように気をつけながら、慎重に慎重に、勉強も武道も力を抜く。祖父が怒らない程度に、実際の能力よりも低く見せながら、影で少しずつ力を蓄えていく。勘の鋭い祖父が相手である以上、それはとてつもなく困難なことだろうが、やるしかない。祖父を屠る以外に俺がこの地獄から出る道は一つもないのだから……。
目標を設定した俺は、祖父に教わったとおり、合理的かつ流動的に行動を開始し、着々と課題をこなしていった。
そうして十七歳の誕生日。
俺はむき出しの日本刀を片手に祖父と父親の待つ部屋へと向かった。




