2.失恋令嬢は隣国へ旅立つ
――聖女。三百年ほど昔、大陸の西方にある大国フランセルで、神のお告げを聞いたとされる少女がいた。人々はその少女を聖女と呼んで崇め、祭り上げた。
クララ嬢はその再来であると、民衆の間で噂が広まっていた。
*
麗らかな初夏の陽気に、私は瞼が重くなるのを感じて頭を振った。レースのカーテン越しに見えるのは、すっかり市街地から遠ざかった牧草地帯である。のどかな風景、ガタガタと揺れる馬車。隣の第五皇女、マリア・ヨーゼファ・アントーニア様――ヨーゼファ様とお呼びしている――は私の肩にもたれてすっかりうたた寝をしていた。
私は今、なぜか帝都を遠く離れ、隣国ザッセン公国へと向かっている。
あの日。皇后陛下との謁見で、クララ嬢の気になる噂を報告すると、陛下は何かを考え込むように眉間に皺を寄せた後、こう言った。
「第五皇女ヨーゼファが、ザッセン大公女の誕生祝いに出席する」
私は突然の話の方向転換についていけず、目を瞬いた。
「……はい」
「そなたも、たまには外遊でもどうだ? ザッセンは食事も大層素晴らしいそうだ。ヨーゼファの侍女として同行し、おおいに羽を伸ばしてくるがよい」
「で、ですが陛下」
「例の女はこちらで調べておくとしよう。さすがに捨て置けぬからな。なに、そなたが戻ってくる頃にはヨハンの頭も冷えている。心配するな」
「いえ、あの」
「レオポルトも同行させるつもりだったのだ。頼りになるぞ」
「あの、陛下……」
「とにかく。 私はそなたを信頼している。そなたも私の真心を忘れぬように」
そうして私は、あれよあれよと国外へ旅立つこととなった。
交渉は決裂か。いや、まだ分からない。ただの平民であれば私も皇后陛下がお認めになるはずはないと考えたが、噂が噂だけに万が一を想像する。
おそらく、皇后陛下も同じことを考えているだろう。
侵略された土地出身の、聖女。皇后陛下はまだサレジエンの奪還を諦めていない。今後、もしかすると利用価値があるかもしれない……。
私と例の娘のどちらがより政治的利用価値が高いか。それがこの騒動の行く末を決める。
取り留めもなく思考を膨らませていると、馬車が停止した。待っていると、すぐに後続の馬車に乗っていたリースルが扉を開ける。
「クラウニッツ卿のご到着です」
リースルの後ろに、地味なウエストコートを纏った中年の男性が立っていた。帽子を取って私に黙礼する。私はヨーゼファ様を起こし、彼を馬車に迎え入れた。
レオポルト・フォン・クラウニッツ卿は、皇后陛下の命を受け、先日まで大国フランセルに大使として駐在していた。帰郷したすぐ、宰相に抜擢されている。
「マリア・ヨーゼファ皇女殿下。この度、私も同行させていただくこととなりました」
「母上から聞いています。お役目、ご苦労様です」
クラウニッツ卿はヨーゼファ様に挨拶してから、私に向き直った。
「お久しゅうございます、エーレンベルク嬢」
「アンネリーゼとお呼びくださいませ。クラウニッツ卿のお噂は本国にも届いておりましたわ。大変なご活躍だったそうで」
「まだまだ、これからですよ。エーレンベルク伯爵にはいつも助けていただいています」
型通りの挨拶を交わしながら、私はクラウニッツ卿を観察する。伯爵家の出身で、本人は爵位を持っていないが、その政治手腕で皇后陛下から絶大な信頼を寄せられていた。
にも関わらず、この度の第五皇女の外遊に同行する。つまり、これはただの外遊などではない。
馬車が動き出した。隣国ザッセンまではここから二日ほどの旅路となる。
私の硬い表情を読んでか、クラウニッツ卿が少し微笑んだ。
「皇女殿下の前でする話ではありませんが、ザッセン公国に到着する前に、今回の旅の目的をアンネリーゼ嬢にはお話ししておかなければなりません」
クラウニッツ卿がヨーゼファ様に非礼を詫びる。ヨーゼファ様が頷いた。
「今回参加するのはエルンスト大公の第一公女、エレオノーラ様の生誕祭です。公国はその折に、エレオノーラ様とプロイツェンの王子との婚約を発表しようとしています。我々の目的は、その婚約を阻止すること」
「婚約を、阻止」
私はクラウニッツ卿の言葉を復唱した。なんということでしょう。婚約を破棄されそうな女に、別の女性の婚約を妨げろ、だなんて。
私の横にいるヨーゼファ様がコロコロと笑った。
「お姉様、すごい顔されてますわよ」
もちろん、私の状況をヨーゼファ様は知らない。ヨーゼファ様は、今も私が近い将来に義理の姉になると思っているのだ。
「エレオノーラ様とプロイツェンの王子の恋路を邪魔するわけじゃないから、安心して。エレオノーラ様には、以前好きな方がいらしたの。エレオノーラ様のいとこのお兄様よ」
「ヨーゼファ様、ご存じなのですか」
「エレオノーラ様とは小さい頃から親しいの。お手紙で何度かやり取りしたわ」
現在、ヨーゼファ様は14歳、エレオノーラ様は16歳。歳が近い姫君たちの共通の話題は、フランセルからもたらされる最新のファッション事情と、それぞれの宮廷の噂話、そして、恋のお話なのだそうだ。
「そのお相手は、いったい……」
ヨーゼファ様は首を横に振った。
「手紙は誰が読むかわからないから、そこまでは書いていなかったわ。でもそうね、13歳のお誕生日にお花をくれた方だそうよ」
「花?」
「そう。そのお兄様の領地で栽培している、珍しいお花なのですって。その花に《エレオノーラ》と名付けてもいいか、って」
「まあ」
なんとロマンチックな話だろうか。13歳の少女が恋に落ちるには十分なエピソードである。
「もし今、プロイツェンの王子とエレオノーラ様が恋仲なのであれば、引き裂くような真似はしたくないけれど……そうでないなら、わたくしはエレオノーラ様には好きな人と結婚してほしいわ」
ヨーゼファ様がそう言った。ご自身の縁談だっておそらく近いうちにまとまるはずだ。相手はまだ一度も会ったことのない殿方になるだろう。
ヨーゼファ様もそれを承知しているのに、似た境遇の姫君の恋を応援するなんて。その健気さに胸を打たれる。
私は、思えば恵まれていたのかもしれない。幼い頃から一緒にいる相手との縁談だったし、国を出されて二度と両親と会えないなんてこともない。
……まあ、その縁も消えそうなのだけど。
「プロイツェンとの縁談は十中八九、国益が目的でしょう。我がオスタリッヒがプロイツェンと開戦すれば、ザッセンも無傷では済みません。この婚姻により、ザッセンはプロイツェンから軍事的庇護が受けられる。プロイツェンはオスタリッヒへ侵攻する街道の使用権や、物資・兵力の供給、さらに地理的な優位性を得られます」
「婚姻を軍事同盟とみなしているのですね」
「その通りです。我々は、ザッセンとプロイツェンの結びつきが強固になるのを防がねばなりません。そのために我々もザッセンに対し、不可侵条約を提案します。ただし、プロイツェンのように婚姻関係で同盟を保障することはできません」
クラウニッツ卿が言葉を切った。なぜなら、我がオスタリッヒに皇子はたった二人しかいないからだ。
一人は皇太子である第一皇子、ヨハン様。二人目は、八番目の子供である第二皇子、モーリッツ様(2歳)。残念ながら、どちらもエレオノーラ様のお相手にはなりえない。
「……ザッセンが中立を守るために、我々が手を貸すこと。プロイツェンと手を結べば、不利益もあることを、大公殿下にはご理解いただく必要があります」
クラウニッツ卿の、穏やかな口調とは裏腹な不穏な締めに、私は唇を引き結んだ。




