1.令嬢の失恋
私、アンネリーゼ・フォン・エーレンベルクは目の前のつむじを見つめたまま、数分間固まっていた。
目の前の彼――我がオスタリッヒ帝国皇太子ヨハン・ヨーゼフ・カール・フォン・アーベンスブルクは頭を下げたまま微動だにせず、私の言葉を待っている。
手の中のティーカップはもうすっかり冷め切って、それでも私は両手を温めるようにカップに触れ続けた。
「……殿下」
長い長い沈黙を、私はやっと破った。喉がカラカラに乾いていて、ちゃんと聞き取れる声になっているかはわからない。
震える指先でそっとカップを持ち上げ、紅茶で唇を湿らせた。
冬の宮殿と呼ばれる皇宮の奥庭である。皇帝居館から皇宮庭園に出て、さらに奥へ進んだここは、今は皇太子の私空間となっている。
ガゼボに座り、見慣れた、よく手入れされた庭を少し眺めてから、私はもう一度皇太子と向き合った。
目の前は真っ暗なのに、彼のくすんだ金色の髪だけは陽の光に照らされて明るい。
「おやめください。貴方様が頭を下げる理由など、この国のどこにもありません」
彼がゆっくりと顔を上げた。整えられた前髪の下から覗く瞳はまだ不安で揺れていた。
「……わたくしとの婚約を、破棄されたいのですね?」
数十分に渡って何度もこねくり回された訳のわからない言葉を要約すると、つまりそういうことだった。
彼は瞳を忙しなく左右に動かし、決して私に視線を合わせようとはしなかった。そして、何かを諦めたように重々しく頷いた。
離れたところに控える彼の側近はどこか苦々しい表情をしている。
「……そうですか。殿下のご心中を皇后陛下はご存知なのですか?」
「そっ、それは……その」
「奏上されていないと。それでしたら、まずはわたくしよりも先に、皇后陛下の許可をいただくのが先なのでは……」
この婚約を決めたのは他でもない、皇后陛下なのだ。
「そっ、そんなこと! 母上はきみを気に入っているではないか。私からきみとの婚約破棄を言い出したら、逆鱗に触れてしまう」
「……つまり、わたくしから陛下に、婚約破棄を伝えてほしいと」
殿下は沈黙した。
「わたくしからそんなことを申し上げれば、わたくしの家は取り潰しですわね」
「………………」
再度殿下が深く項垂れると、天辺の無防備なつむじが見える。反時計回りの可愛いつむじ。幼い頃と比べると、背も伸び、ふくふくとした丸い頬はいつの間にか消え去った。けれど、そのつむじだけは変わらない。
まだ互いの立場も正確に捉えることのできない頃から共に育ってきた。
少し頼りないけれど、素直で可愛くて、勉強も運動も一生懸命なわりに全然上達しない彼。
でもそれでよかった。私が支えてあげればいいのだとずっと思っていた。
国を守り導くためには、彼のような優しくて愛の深い君主と、それを支える何にも揺らがないブレーンがいればいい。
ずっと、そう思って。
でも、彼にはなんと、好きな人ができたのだそうだ。
彼が私に抱いていたのは、恋心などとはほど遠い『きみなら上手くやれるだろう』という、どこか歪んだ信頼だったのだろう。
「わかりました。貴方様の望む通りにいたしましょう」
長い沈黙を挟んだものの、私の判断は比較的早かったように思う。なぜなら、彼がこんなことを言い出すのは、彼の中ではすでにこれは決定事項だからだ。
いくら私が口を噤んで拒否しても、きっと彼の心は変わらない。
「は、母上には……」
「もちろんすべてをお話しします。お叱りは当然、殿下にも受けていただきますわ。でも、本当の愛を貫きたいのでしょう? であるならば、愛する人のために、お叱りくらいは耐えられますわね?」
「あ、アンネリーゼ……!!」
彼が潤んだ瞳をやっと私に向けた。この、曇り空の色をしたつぶらな瞳が好きだった。
*
「うっ……うわぁぁぁん! うえっ、ひっく」
馬車を降り、貴族令嬢にあるまじき小走りでドレスの裾をはためかせながら屋敷の中に入ると、私はそのまま自室のベッドに飛び込んだ。
「アンネさま」
律儀にドアをノックしたのは、私の日傘と扇、馬車の中で外した髪飾りを持ったメイドのリースルだった。
私は枕から顔を離さず、返事もせずに泣き続ける。リースルはドレッサーに荷物を置くと、ベッドを覆う天蓋のカーテンを半分だけ下ろし、その隙間から覗き込むように腰を下ろした。
「どうして、どうしてぇえっ。わた、わたくしっ、ずっとずっと、ヨハン様のことを好きだったのにぃいいいっ」
リースルはベッドで泣きじゃくる私の背をポンポンと叩いた。私は彼女の膝に縋りつく。
「素直に気持ちをお伝えになればよろしいのに。なぜあんなに物分かりのよいお顔をしてらしたんです」
リースルはあのガゼボでも、声の届かない場所から私を見守っていた。私が取り乱しもせず、いかにも物分かりよく頷く姿も、一部始終見られていたのだ。……一部始終どころか、私の人生のほとんどを間近で見ているわけだが。
「だ、だって……皇族は感情より政略なのよ! わたくしの気持ちを伝えるよりも、有能さをアピールしていれば、絶対に手放せない存在になれるって思ったのに。まさか、恋愛感情で手放されることになるなんて、思ってもみなかったのよ!!」
「それはそうでしょうねぇ……」
リースルはボサボサになった私の髪を撫で付けながら、楽観的に言った。
「ま、でも、問題ありません。皇后陛下が婚約破棄を承諾するはずがありませんもの。これまで上の皇女様たちも政略結婚の駒にしてきたお方です。皇太子だからと言って、例外ではないでしょう。お相手はアンネ様とは比べるべくもない身分なわけですし」
「…………皇后陛下には、わたくしからお願いすることになったの。婚約破棄を……」
「…………アンネ様……どんだけお人好しですか……」
呆れてものも言えませんよ。と、撫でていた手が止まった。
「だって……殿下にお願いされたら、断れないわ」
「はぁ、ほーんと、信じられませんね、殿下。こんなに美しくて優秀でお優しいアンネ様を、どこぞの女のために捨てるなんて」
「もっと言って……」
そうして、私は自室にこもって泣き続けた。
三日後。ようやく目の腫れが治まった頃に皇后陛下へ謁見を申請した。
我がオスタリッヒ帝国は長きに渡りアーベンスブルク家が治めてきた。現皇帝はフランク1世だが、実質の統治者は正統なるカール6世の実の娘であり、フランク1世の愛妻である、マリア・ルス・アマーリエ・クリスティナ・フォン・アーベンスブルク・オスタリッヒその人である。すでに八人の子を持ち、今もまた第九子を妊娠中の皇后陛下は、国民からは国母と呼ばれ慕われていた。
紅く塗られた壁に、歴代皇帝たちの巨大な姿絵が何枚も並ぶ。
天井からぶら下がったシャンデリアの下を進み、私は謁見室へと足を踏み入れた。謁見室はそう広くはなく、膨らんだお腹を抱えて玉座に座る陛下は意外に近いところにいた。
前に進み出ると、私は膝を深く折って頭を下げてから、ゆっくりと立ち上がった。
「皇后陛下。お目通りの栄誉を賜り、感謝いたします」
慌ててはいけない。動作は乱れなく、迷いなく、ゆったりとしながらも大袈裟にならないように。口調も決して心の内を見せないように。
視線を合わせると、陛下は微かに瞼を細めた。
「状況はわかっている、アンネリーゼ。いつもいつも、我が息子が面倒をかけるね」
「……とんでもないことにございます、陛下。陛下のお身体が万全でないこのようなときに、お心を乱すようなことになってしまい、申し訳ございません」
状況はわかっている? 殿下が自ら母親に伝えたのだろうか。それとも、息子の動向を逐一チェックでもしているのだろうか。
私は一瞬のうちに思考を走らせていることなどおくびにも出さないように努めながら、困った顔を装う。
「すでに皇太子殿下からお聞き及びのことと思います。わたくしからお伝えするのも、とても勇気のいることでございますが、どうか陛下には殿下のお心に寄り添っていただければ幸いにございます」
「ありえない。幼少期から妃教育を施した完璧な令嬢を隣に据えられながら、皇后に拝謁さえしていない娘と結婚したいだと? あやつに決定権などあるものか。ヨハンではモノにならぬと思ったからそなたをつけたこと、いまだにわかっておらぬ」
「…………」
実母といえ、あまりに酷い言い草である。けれどここで殿下を庇うのは道理が通らない。だって、まさしく皇后陛下の言うとおりなのだ。
おそらく、決定権は皇后陛下か――私にある。これは交渉だ。一国の主に向かって対等な交渉ができるとは思っていない。私がどれだけ何を差し出せるか。もちろん、このまま皇太子妃になることが最も身を差し出すことになる、というのはわかってはいるが。
でも。
殿下はずっと、自分の気持ちを出したり思い通りにしたりなど、できない人生だった。
偉大なる国母の第一王子。若くして国を治め、守り、他国の侵攻から逃げずに戦ってきた強い母親を前に、彼が自分の意思を貫いたことなど、一度としてあっただろうか。
国を守ることがどれだけ大変なことかなんて、彼にはじゅうぶん分かっている。だからこそ、彼は人生を捧げている。
そんな彼が、母親に叱られることを承知で私との婚約を破棄すると言い出した。それは並々ならぬ決意であるはずだった。
「――陛下。わたくしは、殿下のお気持ちを尊重したく存じます。殿下のために、わたくしにできることはなんでもいたします。陛下の下働きでも、皇太子妃の教育係でも、なんでも。この身に施していただいた恩寵のすべてを、国にお返しする覚悟でございます」
「……その覚悟があるそなたがいいのだよ」
「……光栄でございます。陛下」
皇后は大きくため息をついた。お腹が苦しいようにも見えて、私は控えていた侍従にクッションを持ってこさせた。
「どうぞ、背中にお当てくださいませ」
階を上り、皇后の腕にそっと手を触れて腰の隙間にふかふかのクッションを差し込む。
「歳には敵わないな」
「なんてことをおっしゃるのです」
冗談を言う陛下に私は少し強めに否定する。度重なる妊娠と出産によりふくよかにはなっても、まだまだ陛下は四十にも満たない。
「それで? ヨハンが選んだのはどんな女なんだ?」
「それは……」
もちろん調査済みである。ところが。
「……それが……なにやら事情が違うようでして」
「事情?」
「その……どうやら、ですね。殿下はまだ、お気持ちをご本人へお伝えになっていないようでして……」
陛下の瞳が丸くなった。無理もない。昨日、報告を受けた私も似たような反応をしたのだから。
「お相手は先の戦争の折、軍医として従軍され、幾多の兵士の命を救ったことで叙爵された、ドクトル・ハインリヒ・フォン・ベルナー男爵のご令嬢、クララ・ベルナー様です」
皇后は浅くため息をついた。
「拝謁もしていない身分の低い者とは聞いておったが……平民とな?」
「……どうやらそのようで」
「で? しかもその娘はヨハンと恋仲ではない、と?」
「はあ……」
「平民の身でありながら皇太子妃の座を虎視眈々と狙う女豹ではない、と」
「クララ様は、殿下が皇太子であるとはご存知ないうえに、日々ドクトル・ベルナーのもと、医学に邁進しておいでのご様子です」
「………………ならばなぜ、ヨハンはそなたをフったのだ」
「わ、わたくしにも…………わかりかねます」
一瞬の間のあと、私は咳払いをひとつして、この場の仕切り直しを図った。
「ですが、陛下。平民とはいえ、クララ嬢はただの平民の娘ではありません」
「どういう意味だ」
「ドクトル・ベルナー一家は、サレジエンの出身です」
皇后の目の色が一瞬だけ、興味深そうに光った。
サレジエン。去る戦争で、敵国プロイツェンに侵略を受け、今なお占領され続けている土地のことだ。私は続けた。
「ベルナー一家は、現在帝都の西、六区で診療所を構えています。その付近はサレジエンから逃げ延びた民が多く住む場所で、そこではクララ嬢についての噂が広まっています」
「噂?」
「彼女が、聖女であると」




