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潮待ちのレール ― 夕凪の岬 ―  作者: たむ


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7/7

第七章 見届ける人

 夏の入り口の朝は、目覚めた瞬間に分かる。


 障子の向こうの光が、もう春のものではない。

 白いだけではなく、少しだけ厚みを持って差し込む。

 海の匂いも、湿りの中に青い葉の匂いを混ぜ始める。

 春口の夏は、祭りや観光で急に始まるのではなく、こうした朝の光の質の変化で町の中へ入り込んでくるのだろう。

 その朝、湊は早く目を覚ました。

 前夜に読んだ澄江のノートの一文が、まだ身体のどこかに残っていたからかもしれない。

 責めたい日も、責めきれない日もある。

 岬へ来ると、そのどちらでもなくなる。

 ただ、町の中で起きたこととして全部が見える。

 その認識は、父や千紘や澄江だけでなく、自分自身にも向けられ始めている気がした。


 階下へ下りると、台所にはもう汐里が立っていた。

 味噌汁の湯気、焼き魚の匂い、包丁の細い音。

 第四作で知った“朝までをつなぐ湯と灯り”が、いまはもっと具体的に感じられる。

 駅でこぼれた時間。

 港で追いきれなかった時間。

 岬で見届けようとした時間。

 そうしたものが最終的に戻ってくる場所として、この台所は確かに働いているのだろう。


「早いですね」

 汐里が振り向いて言う。

「目が覚めてしまって」

「岬のことですか」

「それもあります」

「それも?」

「澄江さんのノートを読んで、自分のことも少し考えていました」

「自分のこと」

「ええ」

 汐里は鍋の火を少し弱めながら言った。

「このシリーズ、ずっとそれですよね」

「どういう意味で」

「父親や母や千紘のことを知りながら、結局、自分が何をどう引き受けるかに戻ってくる」

「……」

「第六作は、その感じがいちばん強い気がします」


 その言葉に、湊は静かに頷いた。

 たしかにそうだった。

 第一作では父を知ることが中心だった。

 第二作では春乃の時間を受け取ること。

 第三作では澄江の旧姓と島の名。

 第四作では宿の灯り。

 第五作では父の霧のホーム。

 そして第六作の今、ようやくそれらを“自分の中にどう置くか”が前へ出てきている。

 人の過去は、知っただけでは終わらない。

 知ったあとの自分の生き方に、少しずつ置き場所を作らなければならないのだろう。


 朝食のあと、湊は一人で春口の高台へ上がった。

 港と駅と、その向こうの島影が見える場所。

 第一作から何度も来ているが、今日はまた違って見えた。

 岬は町全体を一枚の視界に収める場所だった。

 この高台は、その手前にある。

 町の中にいながら少しだけ外から見る場所。

 ここへ来ると、春口という町が「どこか一つの出来事の場所」ではなく、「複数の遅れや静けさが重なった地形」として見え始める。


 ベンチに座り、ノートを開く。

 だがすぐには書かない。

 今はまだ、言葉にする前の時間を持っていたかった。

 父は見届ける人になったのかもしれない。

 澄江もまた、町全体を見直すために岬へ行った。

 千紘は去る側にいながら、残る町も見ていた。

 では自分はどうなのか。

 ただ彼らの視線を追うだけで終わるのか。

 それとも、ここで何かを引き受ける側へ移るのか。

 その問いが、第六作ではもう避けられないところまで来ていた。


「相沢さん」


 声がして振り返ると、汐里が上がってきていた。

 朝の仕事をひと段落させてから来たのだろう。

 少し息が上がっているが、表情は穏やかだった。


「ここにいると思いました」

「分かりやすいですか」

「いまのあなたは、考えるときに高いところへ行くので」

「岬の影響ですね」

「ええ」

 彼女は隣に腰を下ろした。

「見え方が変わるから」


 しばらく二人で黙って海を見た。

 朝の船が港へ入り、少し遅れて列車の音もする。

 駅と港。

 宿と岬。

 これまで別々に見てきた場所が、今では湊の中でかなりはっきりつながっている。

 そのつながりの中に、自分の位置を置き直す時期に来ているのだと、ぼんやり思った。


「相沢さん」

 汐里が言う。

「はい」

「父親のこと、かなり見えてきましたよね」

「ええ」

「母のことも」

「そうですね」

「千紘のことも、前よりずっと」

「はい」

「それで」

 汐里は少し言葉を探すように視線を落とした。

「これから、あなたはどうするんでしょう」

 その問いは、責めるものでも急かすものでもなかった。

 ただ、ここまで来た以上、もう自然に出てくる問いだった。

 自分は何をするのか。

 春口へ戻り続けるのか。

 東京で生活を続けながら、ただこの町を抱えるのか。

 父の遅れた朝を知ったあと、その続きをどう生きるのか。


「まだ」

 湊は正直に言った。

「全部は分かりません」

「ええ」

「でも、一つだけ前よりはっきりしたことがあります」

「何ですか」

「父を“ただ負い目の人”として持つのは、もう違うと思う」

「……」

「待合室で迷い、ホームで遅れ、発車後に取り残され、下りを追って、岬で見届けようとした人として」

「はい」

「その具体を知った以上、父のことをただ抽象的な罪悪感の塊にはできない」

「そうですね」

「そして」

「そして?」

「そういう父を持った息子として、自分も何かを“見なかったことにはしない”側へ行くんだと思います」


 その言葉は、口にして初めて自分でもはっきりした。

 見なかったことにはしない。

 それは第六作の岬で学びつつある態度そのものだった。

 救えない。

 戻せない。

 間に合わなかった。

 それでも、見なかったことにはしない。

 父も、澄江も、あるところまではそうしていた。

 ならば自分もまた、その続きを引き受けるほかないのだろう。


 汐里は、その答えをしばらく黙って聞いていた。

 やがて小さく頷く。


「それ、少し分かります」

「どうして」

「私も、母のことを“つらかった人”としてだけ持っていたころより」

「ええ」

「宿を守った人、町を見直そうとした人として持てるようになってから」

「はい」

「自分がこの宿にいる意味も、前より少し分かった気がしたから」

「……」

「見なかったことにしない、ってたぶんそういうことなんでしょうね」


 その言い方は、とても汐里らしかった。

 彼女はもう、母の残した灯りの中で暮らすだけの娘ではない。

 母の見方を自分の中へ引き受け、それを日々の宿の仕事へ変えている人だ。

 第六作は、湊だけでなく汐里にとっても“見届ける人になる巻”なのだろう。


 その日の午後、二人は宿の使いで港のほうへ出た。

 魚屋、酒屋、商店。

 春口の日常は相変わらず小さく続いている。

 だが今の湊には、その日常の一つひとつが前より重く見えた。

 父が見たかもしれない港。

 澄江が見上げたかもしれない坂。

 千紘が最後に町のほうを見たかもしれない場所。

 そのどれもが、もう単なる背景ではない。

 それでも町は普通に動いている。

 その“普通さ”を見なかったことにしないこともまた、見届けることの一部なのだろう。


 夕方、宿へ戻る途中で、汐里が不意に言った。


「母は」

「はい」

「人を救おうとして宿を続けたんじゃないのかもしれませんね」

「どういう意味で」

「救えると思っていなかったと思うんです」

「……」

「でも、見なかったことにしないために、灯りを残した」

「それは」

 湊はゆっくり言う。

「かなり本質的ですね」

「ええ。帰れない夜の人に湯を出すのも」

「一夜を預かるのも」

「全部、“あなたの遅れやつらさを無かったことにはしません”っていう形なのかもしれない」

「そうですね」

「母、たぶんそういう人でした」


 その理解は、第四作の宿をさらに深く言い表していた。

 宿は人生を変えない。

 だが一夜を預かる。

 それはつまり、その人の遅れやつらさを“無かったことにはしない”ということなのだろう。

 そして岬もまた同じだ。

 見届けることで、無かったことにはしない。

 第六作の中で、宿と岬はずいぶん近い場所になり始めていた。


 夜、湊はノートにこう書いた。


 ――見届ける人になるとは、何かをきれいに理解したり赦したりすることではなく、無かったことにしない側へ立つことなのかもしれない。

 ――父も、澄江も、その不器用な入口までは来ていた。

 ――いま自分にできるのは、その続きを自分の生活の中で引き受けることだろう。


 書き終えて窓を開けると、夜の海は見えなかった。

 だが、見えない向こうに港があり、島影があり、岬があることはもう分かっている。

 第六作は終盤へ向かっている。

 そしてそこでは、父や澄江を知ること以上に、自分がどのような“見届ける人”になるのかが問われるのだろうと、湊は静かに感じていた。

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