表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮待ちのレール ― 夕凪の岬 ―  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/9

第八章 夕凪の岬

 その日、岬へ向かう道は、これまででいちばん静かだった。


 風がないわけではない。

 草の先は時おり揺れ、木の葉も細く擦れ合う。

 けれど、その揺れ方がどこか控えめで、町の外れへ向かう道そのものが、何かを待つように息をひそめているように思えた。

 春口の夕方はたいていゆっくりだが、夕凪の前だけは、そのゆっくりさの質が少し変わる。

 時間が進むのではなく、ひとところへ寄ってくる感じがある。

 駅の発車時刻も、港の最終便も、宿の夕餉の支度も、暮らしのそれぞれの流れが、いったんこの夕方へ集められていく。

 だからこそ岬は、最後に“見る”ための場所になるのだろうと、湊は歩きながら思った。


 今日は篠原も瀬尾もいない。

 行くのは、湊と汐里の二人だけだった。

 篠原は「ここから先は、お二人で見たほうがいい」と言い、瀬尾も「よう見える日は、人が多いほうがかえって邪魔や」と笑っていた。

 それはたぶん、単に遠慮ではない。

 第六作のクライマックスは、父の視線、澄江の視線、千紘の静けさを知ったあとで、その全部を自分たちの中にどう置くかの時間なのだろう。

 それはもう、証言を集める時間ではない。

 引き受けるための時間だ。


 番小屋へ着くと、海はまだ夕方の明るさを残していた。

 遠くの島影はやや青く、港の防波堤には点のように小さな人影がある。

 駅の赤い屋根も見える。

 そこへ列車が入り、また出ていく。

 ここから見ると、その動きは驚くほど小さい。

 町の中にいれば重大に感じる発車も、岬からは、ただ一日の中で何度も繰り返される小さな往復に見える。

 その見え方は残酷でもあり、同時にどこか救いでもある。

 一人の遅れが人生を変える。

 だが、町全体はそれでもなお動き続ける。

 父が岬で見たのも、おそらくその両方だったのだろう。


「ここへ来ると」

 汐里が番小屋の柱に手を触れながら言う。

「町の中にいたときとは、やっぱり違いますね」

「ええ」

 湊が答える。

「何がいちばん違いますか」

 彼女は少し考えてから言った。

「怒れなくなる、というか」

「……」

「もちろん、つらかったことはつらかったし、母にも父にも、千紘にも、それぞれどうしようもなかったことがある」

「ええ」

「でも、ここから見ると、誰か一人だけに怒りを固定できない」

「町全体の流れに見えるから」

「そうです」

「それでも、軽くもならない」

「はい」

「岬って、不思議ですね」

 湊は、その言葉に静かに頷いた。

 岬は、痛みを癒やす場所ではない。

 ただ、痛みの位置を変える。

 個人の胸の奥に刺さっていたものを、町全体の時間の中へ置き直す。

 それによって責めきれなくなる。

 だが、見なかったことにもできなくなる。

 それが第六作で見えてきた“見届ける”という行為なのだろう。


 しばらくして、風がやんだ。

 昨日や一昨日と同じように、しかし今日はもっとはっきり分かった。

 草の揺れが止まり、番小屋の板の隙間を通る空気が消え、海面の細かな光がひとつの大きな静けさに変わる。

 夕凪だった。

 番小屋の窓の向こうの景色が、その瞬間だけ少し近づいたように見える。

 遠い船も、港へ戻る小さな便も、駅の屋根も、島影も。

 全部が輪郭だけを濃くして、こちらへ寄ってくる。


「……来ましたね」

 汐里が小さく言った。

「ええ」

「この時間が」

「はい」


 二人は並んで立った。

 誰もいない番小屋の中で、海と町を一緒に見下ろす。

 湊はそのとき、これまでの巻の出来事が、頭の中で説明ではなく風景として一つにつながるのを感じていた。

 第一作の父のノート。

 霧のホーム。

 第二作の船着場の午後。

 第三作の島の名。

 第四作の宿の灯り。

 第五作の白線の内側。

 それらがいま、駅と港と宿と岬を結ぶ一枚の地形になっている。

 春口の物語は、初めからずっとこの地形の中にあったのだろう。


「相沢さん」

 汐里が、海を見たまま言った。

「はい」

「私、母のことを前よりずっと好きになった気がします」

 その言葉に、湊は少しだけ驚いた。

 汐里はこれまで、母のことを理解した、受け止め直した、という言い方はしてきた。

 だが“好きになった”とは、初めて言った気がする。


「どうしてですか」

「強いから、ではないんです」

 彼女はゆっくり言う。

「母は、強い人だったわけじゃないと思う」

「ええ」

「でも、自分の見てしまったことを無かったことにしないで、生きるほうを選んだ」

「……」

「宿で灯りを残して、町を見て、岬へ来て」

「はい」

「そういうところが、今はすごく好きです」

 その声は静かだったが、確かな熱を持っていた。

 死者を愛し直す、ということがあるのだろうと湊は思った。

 ただ懐かしむのではなく、その人の弱さも、曖昧さも、遅れも含めて、もう一度好きになる。

 第六作で汐里が岬へ来た意味の一つは、まさにそこにあるのかもしれない。


「僕も」

 湊が言った。

「父のこと、少し似た感じです」

「好きになった?」

「そこまではまだ、うまく言えません」

「ええ」

「でも、前よりははっきり“人だった”と思える」

「……」

「ただの負い目じゃなくて」

「待合室で迷って」

「ホームで遅れて」

「発車後に取り残されて」

「それでも下りを追って、最後にここへ来た」

「はい」

「そういう人だったんだなって」

 汐里は、ゆっくり頷いた。

 それで十分だった。

 父を好きになれるかどうかは、まだ先かもしれない。

 だが、抽象的な罪悪感ではなく、一人の遅れた人間として受け取れるようになった。

 その変化は、第五作から第六作にかけて得たもっとも大きなものの一つだろう。


 夕凪はさらに深まり、海がほとんど動かなくなった。

 その静けさの中で、港へ帰る船が一隻だけ、ごくゆっくり白い航跡を引いている。

 駅には下り列車が入り、赤い屋根の下に一度だけ人影が増える。

 そしてまた減る。

 町は小さい。

 だがその小ささの中に、いくつもの人生の決定的な朝や夕方が折り重なっている。

 いまや湊には、それが前よりずっと具体に感じられた。


「相沢さん」

 汐里がもう一度言った。

「はい」

「ここで、何か終わるんでしょうか」

 その問いは、シリーズ前半の総括そのもののように聞こえた。

 父の朝。

 千紘の静けさ。

 澄江の岬。

 宿の灯り。

 それらはここで終わるのか。

 あるいは、別のかたちで続いていくのか。


「終わる、というより」

 湊はゆっくり答えた。

「置き方が変わるんだと思います」

「置き方」

「ええ。父のことも、千紘のことも、澄江さんのことも」

「……」

「消えないし、軽くもならない」

「はい」

「でも、追い続けるだけのものではなくなる」

「見届けたものになる」

「そうですね」

 汐里はその言葉を受けて、しばらく海を見ていた。

 やがて、小さく息を吐く。


「それなら」

 彼女が言った。

「私も、母をこれからずっと“追う”んじゃなくて、ちゃんと一緒に生きられる気がします」

「宿の中で」

「はい。帳場の奥の箱も、離れも、迎えの部屋の鍵も」

「……」

「全部、過去の遺物じゃなくて、見なかったことにしないためのものとして」

「それがたぶん」

 湊は言う。

「お母さんの望んだ残り方なんでしょうね」


 その瞬間、夕凪の海の向こうで、遠い船が少しだけ向きを変えた。

 ほんのわずかな動きなのに、静かな海の上では妙にはっきり分かる。

 見届けるということは、たぶんそういうことなのだろう。

 劇的な変化ではない。

 ほんのわずかな向きの変化を、自分の目で確かめること。

 父もここで、千紘の行く先や、町の続いていく時間の、そうしたわずかな変化を見ていたのかもしれなかった。


 やがて、風がほんの少し戻った。

 草が揺れ、水面に細い皺が戻る。

 夕凪は終わり始めている。

 けれどそれで何かが失われる感じはなかった。

 むしろ、見ておくべきものを見たあとで、町の時間がまた動き始める感じがある。

 それこそが、第六作のクライマックスにふさわしい時間なのだろうと、湊は思った。


 岬を下る前、湊は最後に一度だけ町全体を見た。

 駅。

 港。

 宿のある方角。

 島影。

 そこに父がいた。

 澄江がいた。

 千紘がいた。

 そして今は自分たちがいる。

 それぞれ違う時期に、違う重さで、この町を見ていた。

 それだけのことが、ひどく大きかった。


 帰り道、汐里は急に軽くなった足取りで歩いた。

 何かが解決したわけではない。

 それでも、母の時間や父の影を、前より少しだけ“共に持てる”形になったのだろう。

 夕凪の岬とは、そういう場所なのかもしれない。

 人を救うのではなく、その人が抱え続けるものの置き方を、ほんの少し変える場所。


 夜、湊はノートにこう書いた。


 ――見届けるとは、何かを終わらせることではなく、追い続けるしかなかったものの置き方を変えることなのだろう。

 ――父の朝も、澄江の静けさも、千紘の視線も、消えずに残る。

 ――けれど夕凪の岬で、それらはようやく“ただ追うだけのもの”ではなくなった。

 ――私はたぶん、ここから先、それらと共に生きる側へ移っていく。


 書き終えたとき、遠くで列車の音がした。

 それに少し遅れて、港の汽笛も。

 春口の夜は、いつも海と鉄道の両方を見えないまま含んでいる。

 第六作のクライマックスもまた、その二つの気配の上に静かに落ち着いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ