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潮待ちのレール ― 夕凪の岬 ―  作者: たむ


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6/7

第六章 澄江の岬

 その夜の春口は、風が戻ったあとにだけある静けさを持っていた。


 夕凪が解けたあとの海は、昼の海とも夜の海とも少し違う。

 水面にはもう細かな皺が戻っているのに、しばらく前まで“何も動かないように見えていた”記憶が目に残っていて、実際以上にゆっくりしているように思えるのだ。

 港の灯りも、ただの夜景ではなく、少し前に岬から見下ろした町の輪郭の続きを引きずって見えた。

 駅の赤い屋根。

 港の防波堤。

 宿へ向かう坂道。

 その全部を一度に見たあとでは、春口の夜はこれまでより狭く、そして深かった。

 人の一生が収まりきってしまうくらいに小さいのに、その中で起こる遅れや見送りきれなさは、どこまでも深く沈んでいく。

 瀬尾の言った「見なかったことにできんからや」という言葉が、まだ湊の中に残っていた。


 夕食後、汐里は帳場の奥から、澄江の手記とは別の薄い綴じノートを持ってきた。

 表紙に何も書かれていない、ごく簡素なものだ。

 第四作のときに見つけた仕事ノートとは違い、もっと断片的で、書く時期もまばららしい。

 汐里はそのノートを卓上に置くと、少しだけためらうように指先を添えた。


「これ」

 彼女が言う。

「母のものだと思うんですけど、今までちゃんと読んでいなかったんです」

「どうして」

 湊が訊く。

「仕事のことでも、家のことでもない感じがして」

「……」

「何を書いているのか、少し怖かった」

「でも今日は」

「岬のあとなら、読める気がします」


 その言い方が、いかにも第六作らしかった。

 ここまでのシリーズで、何かを知るときはいつも、ただ情報が足されるのではなかった。

 駅や港や宿や島を通ることで、やっと読めるようになる頁がある。

 人は、準備のないままには過去を受け取れないのだろう。

 岬へ行ったあとでようやく開けるノートがあるのも、春口らしい気がした。


 頁を開くと、最初のほうはほとんど白紙だった。

 飛び飛びに短い文があり、同じ日付が何度か続いたかと思うと、また何ヶ月も空く。

 日記ではない。

 だが、生活の手触りを離れた思考だけが、必要なときにだけ書き留められている感じがあった。

 その中に、岬を思わせる言葉がいくつも混じっている。


 ――高いところから見ると、町の中で別々だったことが一つの流れに見える。

 ――駅の遅れも、港の遅れも、家の灯りも、同じ夕方の中にある。

 ――近くにいると責めたくなるものも、遠くから見ると責めきれない。

 ――けれど、遠くから見たからといって軽くなるわけではない。


 汐里が、その最後の一文をゆっくり読み返した。

 近くにいると責めたくなるものも、遠くから見ると責めきれない。

 それは父のことでもあり、千紘のことでもあり、何より澄江自身のことでもあるように思えた。

 町の中では、人はどうしても誰かを責めたくなる。

 間に合わなかった人。

 先に静かになってしまった子。

 帰れなかった自分。

 だが岬へ立ち、その全部が同じ小さな町の中で起きていると見ると、誰か一人だけをきっぱり責めることができなくなる。

 それは赦しではない。

 むしろ、より深い重さの引き受けに近い。


「母」

 汐里が言った。

「この時点で、かなり分かっていたんですね」

「ええ」

 湊が答える。

「町全体を見れば、責めきれないことがあるって」

「でも軽くはならない」

「そこが、お母さんらしいです」

「……」

「きれいに救われるほうへは行かない」


 汐里は、少しだけ苦く笑った。

 その笑い方もまた、澄江に似てきている気がした。

 けれどそれは、ただ母娘が似ているということではない。

 同じ町の時間を少しずつ自分の中に引き受け始めた人の表情なのだろう。


 さらに頁をめくる。

 そこには、岬そのものに触れたような断片があった。


 ――岬では、出ていくものだけでなく、残るものも見える。

 ――あの子は、行く先よりも町のほうをよく見ていた。

 ――たぶん私より先に、戻らないことと、残るものがあることを知っていた。

 ――子どもに、そういう知り方をさせたくはなかった。


「……」

 部屋が、しばらく静まり返った。

 あの子。

 それが千紘である可能性は極めて高かった。

 そして澄江は、千紘が「行く先よりも町のほうをよく見ていた」と書いている。

 瀬尾の証言と、ここでぴたり重なった。

 千紘は大人より先に、残るものがあることを知っていた。

 それが、澄江にはたまらなかったのだろう。

 子どもが、去ることだけでなく、残される町の続きまで見てしまう。

 それは“聞き分けのいい子”などではなく、もっと深い悲しさだったに違いない。


「母」

 汐里の声がかすかに揺れた。

「千紘のこと、ちゃんと見ていたんですね」

「ええ」

 湊は低く答えた。

「かなり」

「しかも」

「しかも?」

「母は、自分より先に千紘が分かっていたことを、つらく思っていた」

「そうですね」

「“子どもに、そういう知り方をさせたくはなかった”って」

「はい」

「それは、母のほんとうの気持ちなんでしょうね」


 その言葉に、湊も深く頷いた。

 第三作では、澄江は島の名を持つ人として見えた。

 第四作では、宿の灯りを守る人として見えた。

 第六作の今、そこへもう一つ、かなり重要な輪郭が加わっている。

 澄江は、千紘の静けさと、その静けさが意味するものを、きちんと見て苦しんだ人だったのだ。

 ただ置いてきたのではない。

 ただ黙っていたのでもない。

 見てしまったからこそ、宿の灯りへ変えて生きるしかなかった。

 そう考えると、第四作の宿の意味もまた少し変わる。

 澄江は、帰れない夜を預かっただけではない。

 “先に静かになってしまう子ども”を生み出してしまうような遅れを、大人の側で少しでも引き受け直そうとしていたのかもしれない。


 ノートのさらに後ろに、岬での時間を直接書いたとしか思えない頁があった。

 字は小さく、詰まっている。

 何度か書き直した跡もある。


 ――あの人は、追っているようで、ほんとうは見届けようとしていたのかもしれない。

 ――遅すぎるけれど、遅すぎるなりに、まだ見ようとしていた。

 ――私はそれを責めたい日もあるし、責めきれない日もある。

 ――岬へ来ると、そのどちらでもなくなる。

 ――ただ、町の中で起きたこととして全部が見える。

 ――それがつらい。

 ――けれど、そう見ないと、自分だけが町の時間から外れてしまう。


 湊は、その頁からしばらく目を離せなかった。

 あの人。

 おそらく父のことだろう。

 澄江は、父のことをずっと単純には見られなかったのだ。

 責めたい日もある。

 責めきれない日もある。

 そして岬へ来ると、そのどちらでもなくなる。

 ただ、町の中で起きたこととして全部が見える。

 これほど春口らしい認識はない気がした。

 正しさでも、赦しでもない。

 町の時間の中で起きたこととして、すべてを見る。

 その視点へ立つことが、澄江にとっての岬だったのだろう。


「母」

 汐里が、息を整えるように言う。

「父親のことも、ただ恨んでいたわけじゃなかったんですね」

「ええ」

「でも赦していたわけでもない」

「そうですね」

「母、ほんとうに春口の人ですね」

「どういう意味で」

「誰か一人だけをきれいに悪者にも、きれいに赦しの対象にもできない」

「……」

「町ごと引き受けるしかないと思ってる感じがするから」


 その言葉は、澄江だけでなく、ここまでのシリーズ全体を言い表しているように思えた。

 父を断罪して終わる話ではない。

 春乃を悲劇の人として閉じる話でもない。

 千紘を“可哀そうな少女”だけにする話でもない。

 春口という町の中で、誰もが半歩ずつ遅れたり、先に静かになったりしながら、そのまま次の便へ流れていく。

 だから、一人だけを強く断じることができない。

 それは曖昧さでもあるが、同時にこの物語の誠実さでもあるのだろう。


 そのとき、帳場のほうで小さく鈴が鳴った。

 客が入ったのだろう。

 汐里は立ち上がりかけ、しかしすぐには部屋を出なかった。

 ノートの上に手を置いたまま、言う。


「母が」

「ええ」

「岬へ行っていた意味、少し分かりました」

「どういう」

「千紘のことを思い出すためだけじゃなかった」

「父のことでもあった」

「はい。それに」

「それに?」

「自分が町の時間から外れないためでもあった」

「……」

「母は、あのまま宿だけにいたら、自分の中の時間だけ止まってしまうのが分かっていたのかもしれません」

「だから岬へ行った」

「町全体がまだ動いていることを見るために」


 その理解は、第四作の澄江の仕事と見事につながっていた。

 宿の灯りを残し、帰れない夜の人に湯を出す。

 それは、誰かの時間を町の時間へ戻す行為でもある。

 澄江は岬で、自分自身に対して同じことをしていたのかもしれない。

 自分だけが止まってしまわないように、駅も港も宿も町もまだ動いていることを見ていた。

 見なかったことにはしないために。


 汐里が帳場へ下りたあと、湊は一人でその頁をもう一度読んだ。

 父は、追っているようで見届けようとしていた。

 澄江は、責めたい日も責めきれない日もあった。

 千紘は、大人より先に残るものを見ていた。

 それらが、この小さな春口の中で重なっていた。

 第六作は、もはや単なる“父のその後”の話ではない。

 澄江と父と千紘、それぞれがどのように春口を見ていたかを重ねる巻になっているのだ。


 窓の外には、港の夜が広がっていた。

 海は見えない。

 だが、今日岬から見た町全体の視界がまだ目の奥に残っている。

 ここもその一部なのだ。

 駅も、港も、宿も、岬から見れば同じ夕方の中にある。

 その感覚を持って戻ってくると、春口の夜はこれまでより少しだけ静かで、少しだけ深い。

 人の一生がこの小さな町の中で何度も折れ曲がり、それでも翌日にはまた便が出て、宿の灯りが点く。

 澄江はそのことを知っていたのだろう。


 湊はノートを開き、短く書いた。


 ――澄江は、千紘の静けさと父の遅さの両方を見ていた。

 ――だから誰か一人だけを責めきれず、それでも軽くもできなかった。

 ――岬は、その重さを“町の中で起きたこと”として見直すための場所だったのだろう。


 書き終えたあと、下から汐里の客を迎える声が聞こえた。

 宿は今日も普通に動いている。

 春口の町の時間は、誰かの見送りきれなかった朝を抱えたまま、それでも続いていく。

 第六作の後半は、その続いていく時間の中で、自分が何を引き受けるのかへ進んでいくのだろうと、湊は静かに思った。

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