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潮待ちのレール ― 夕凪の岬 ―  作者: たむ


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第五章 父の視線

 岬から戻った夜、春口の町はいつもより近く感じられた。


 宿の二階の窓を開けると、港の灯りがいくつか低い位置で揺れている。駅のほうは直接は見えないが、時折レールを渡る列車の音だけが細く届く。これまで何度も同じ景色を見てきたのに、今夜はその配置が少し違って見えた。港と駅が離れた場所ではなく、岬から見た一枚の視界の中でつながって思い出されるからだろう。父が遅れたホームも、澄江が灯りを残した宿も、千紘が町のほうを見返したかもしれない坂道も、すべて同じ小さな町の中に収まっている。その狭さが、かえって人の人生の深さを増してしまうのかもしれなかった。


 湊は机に向かったが、すぐにはノートを開かなかった。

 今日は、書くより先に考えたい気分だった。

 父は岬で何を見ていたのか。

 瀬尾は「追いつきたい顔やなかった」「見とかんと終われん顔やった」と言った。

 その言葉は強かった。

 父は、千紘そのものを追っていたのではない。

 自分が見送りきれなかった朝の行き先を見ようとしていた。

 ならば、岬に立った父の視線は、少女の背中だけではなく、もっと広いものに向けられていたはずだ。

 海の先。

 島影。

 春口の町。

 そして、自分がそのどこにも間に合わなかったという事実そのもの。


 階下で食器を片づける音がしばらく続き、それから静かになった。

 しばらくして、汐里が部屋の前で小さく声をかけた。


「起きてますか」

「はい」

「少しだけ、いいですか」

「もちろん」


 彼女は湯呑みを二つ持って入ってきた。

 机の上に置き、自分は窓際に腰を下ろす。

 こういう夜のやり取りは、第四作までのあいだに自然なものになっていた。

 何かを大きく確認するわけではない。

 ただ、同じ町の別の時間を、それぞれがどう受け取ったかを少しずつ確かめる。

 春口では、そういう静かな共有のほうが長く残るのだろう。


「今日の岬」

 汐里が言った。

「ええ」

「相沢さんには、どう見えましたか」

 湊は少し考えてから答えた。

「父の視線が、初めて“追う人の目”だけじゃなくなった気がしました」

「どういう意味で」

「霧のホームまでは、父はずっと追う側だった」

「待合室で決めきれず、下りへ回って」

「ええ。でも岬では」

「見届ける側へ移った」

「たぶん」


 汐里は湯呑みを包むように持ちながら頷いた。

 その横顔には、澄江を思うときと少し似た深さがあった。


「母も」

 彼女が言う。

「岬では“追う”より“見る”ほうへ行っていたのかもしれませんね」

「そう思います」

「宿で仕事をしている母しか知らなかったけど」

「ええ」

「町を全部まとめて見ようとしていた母もいた」

「瀬尾さんの言い方だと、かなりはっきり」

「はい」

「駅も港も、煙も」

「……」

「母にとって春口は、傷の場所であると同時に、続いていく生活の場所でもあったんですね」

「そうでしょうね」


 その言葉を聞きながら、湊は父のことも同じように考えていた。

 父は、千紘を見送りきれなかった朝だけを見ていたのではないのかもしれない。

 最後には、駅も港もそのあとも動き続けている春口の町全体を見ていた。

 つまり、自分の失敗が起きた場所が、それでもなお日常を続けていくことを。

 それは残酷でもあり、同時に救いでもある。

 人の一度の遅れで、町は止まらない。

 だからこそ人は、その止まらなさの中で自分の遅れを引き受けるしかないのだろう。


「相沢さん」

 汐里が窓の外を見たまま言う。

「はい」

「父親って、最後に町を見たんだと思いますか」

 湊は少しだけ間を置いた。

 確証はない。

 だが今は、そう考えるほうがはるかに自然だった。


「思います」

「どうして」

「千紘だけ見ていたなら、岬まで来る必要はなかった」

「……」

「海側の待合でも、港でもいいはずです」

「ええ」

「でも父は、その先でさらに高いところへ行った」

「岬へ」

「はい」

「それは、行き先だけじゃなくて」

「その行き先が生まれた町ごと見たかったんじゃないかと思います」

「……」

「自分が遅れた朝の全体を」


 汐里はその言葉をしばらく黙って受け止めていた。

 やがて、ほんの少しだけ笑った。

「春口らしいですね」

「どういう意味で」

「この町の人って、結局いつも一つの場所だけじゃ終わらないから」

「駅だけじゃ足りない」

「港だけでも、宿だけでも」

「岬まで行ってやっと」

「一枚になる」

「そうですね」


 その夜、湊はようやくノートを開いた。

 書いたのは長い文章ではなかった。


 ――父は、千紘の背中だけでなく、千紘が去っていく春口の全体を見たかったのかもしれない。

 ――駅で遅れ、港で追い、岬でようやく町全体を見る。

 ――それは追跡の終わりであり、見届けの始まりだったのだろう。


 書き終えたあと、ペンを置いて窓の外を見た。

 港の灯りはまだ小さく揺れている。

 夜の春口は、出来事を止めずに静かに抱える町だ。

 父もその静けさに、何度も引き戻されたのだろうと、今は思えた。


 翌日、湊たちは再び岬へ向かった。

 今日は夕方ではなく、少し遅めの午後。

 瀬尾から「昼のうちの見え方も違う」と聞いたからだ。

 空はよく晴れ、風は昨日より少しある。

 番小屋へ着くと、海は昨日の夕凪ほど静かではないが、そのぶん船の進み方がよく分かった。

 動いているものは動いている。

 夕凪のように止まって見えない。

 その違いが面白かった。

 父や澄江や千紘は、時間帯によって別のものを見ていたのかもしれない。

 夕方は見届けの時間。

 昼は、まだ動いているものが動いていると分かる時間。

 その両方が、この岬にはある。


 瀬尾は今日は番小屋の中に立っていた。

 窓枠に手をかけ、双眼鏡も使わず沖を見ている。

 三人が来ると、振り返らずに言った。


「昼は、よう動くやろ」

「ええ」

 湊が答える。

「昨日より、船がちゃんと進んで見えます」

「そうや」

「夕方は止まって見えた」

「凪やからな」

「では」

 汐里が訊く。

「見るものが違うんですか」

「違う」

 瀬尾ははっきり言った。

「昼は“まだ間に合う”が見える」

「……」

「夕方は“どこへ行ったか”が見える」


 その二つの時間の違いが、父の視線を理解する鍵になる気がした。

 父はもし昼にここへ来たなら、まだ追いつける可能性を探していたのかもしれない。

 夕方にいたなら、もう追うのではなく、どこへ行ったのかを見ていたのかもしれない。

 第一作から第五作までで見えてきた父の遅れた朝は、そのどちらにも跨っていたのだろうか。


「若い男は」

 湊が慎重に訊く。

「どちらの時間にいましたか」

 瀬尾は少し目を細めた。

「最初は昼や」

「昼」

「まだ足が落ち着いてなかった」

「足が」

「うろうろしとった」

「……」

「そやけど、あとになって夕方にも来た」

「また来た」

「うん。そのときは、立ち方が変わっとった」

「どう変わったんですか」

「追う足やなくなっとった」

 湊は、その言葉にしばらく返事ができなかった。

 追う足ではなくなった。

 それは、父が一日か二日で、あるいはもっと短い時間の中で、追跡から見届けへ移っていったことを示しているのかもしれない。

 霧のホームで遅れ、下りを追い、海側の待合を回り、それでもなお岬へ戻ってきた。

 その往復の中で、父の足は変わった。

 それは単なる疲労ではないだろう。

 諦めとも違う。

 “もう追うだけでは終われない”と知った人の体の変化だったのかもしれない。


「父は」

 汐里が静かに言う。

「見届ける人になっていったんですね」

「たぶん」

 湊が答える。

「追いながら」

「ええ」

「遅れながら」

「はい」

「それでも最後には」

「そうなったんだと思います」


 瀬尾は番小屋の床を杖で軽く鳴らした。

 その音が、小さな木の空間に乾いて響く。


「人はな」

 老人が言う。

「追っとる最中にも、どこかで分かる」

「何をですか」

「もう間に合わんいうことを」

「……」

「せやけど、そこですぐ止まれるわけやない」

「ええ」

「少し先まで行って、ようやく“見るしかない”ところへ移る」

「それが岬」

「そうや」


 その言葉で、岬の意味がさらに明確になった。

 ここは最初から見届ける人の場所ではない。

 追って、遅れて、間に合わないとどこかで分かった人が、少し先まで行ったあとでようやく立つ場所なのだ。

 だからここには、待つ人ではなく「もう待てんようになった人」が来る。

 瀬尾の最初の言葉が、今になってもっと深く理解できる気がした。


 昼の光の中で、春口の町は昨日よりもっと生活の町に見えた。

 港では小さな車が動き、駅には列車が入り、家々の屋根には洗濯物が見える。

 父もこの景色を見たのだろうか。

 千紘を見送りきれなかったそのあとで、それでも町が動き続けていることを。

 自分の遅れの外側で、生活がやまないことを。

 そのことは人を慰めるだろうか。

 それとも、かえって孤独にするだろうか。

 湊にはまだ分からなかった。

 だが少なくとも、父はそれを見てしまったのだろうと思った。

 だから何度も春口へ戻った。

 あの日だけではなく、その後も続いてしまう町の時間ごと、引き受けきれずに。


 帰り道、汐里はほとんど喋らなかった。

 岬から町へ戻る細い道を、ただ一定の速度で下りていく。

 その横顔に、湊は澄江の気配を少しだけ見た。

 何かを考えているときの、話さないことでむしろ思考を深くしていく静けさ。

 宿の主としての汐里と、母の娘としての汐里とが、いま少しずつ同じ方向を向き始めているのかもしれなかった。


 宿へ戻り、夕方の支度の前に一息ついたとき、汐里がぽつりと言った。


「相沢さん」

「はい」

「母も、父親も」

「ええ」

「春口を“忘れられなかった場所”としてだけじゃなくて」

「どういう」

「“見なかったことにできなかった場所”として抱えていたのかもしれませんね」

「……」

「それって、すごく重いけど」

「ええ」

「でも、きれいごとよりは本当な感じがします」


 その言葉に、湊はゆっくり頷いた。

 忘れられない場所。

 その言い方はどこか情緒的すぎる。

 見なかったことにできない場所。

 そのほうが、春口にはずっと似合う。

 駅で遅れたことも、港で追いきれなかったことも、岬で町全体を見てしまったことも、どれももう“なかったこと”にはできない。

 だから人は戻る。

 戻って、別の角度からもう一度見る。

 それがこのシリーズの人物たちなのだろう。


 夜、湊はノートにこう書いた。


 ――父は、岬で追う足をやめた。

 ――その代わり、見なかったことにできない町全体を見たのだろう。

 ――千紘の行く先だけではなく、自分が遅れた朝の地形そのものを。

 ――春口は、忘れられない場所というより、見なかったことにできない場所として人の中に残るのかもしれない。


 書き終えたとき、外では港の灯りが少しずつ濃くなっていた。

 夕凪の時間は終わっている。

 それでも、岬で見た静けさはまだ胸の中に残っていた。

 第六作は、ここからさらに千紘の輪郭を前へ出していくのだろうと、湊は静かに思った。

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