第二章 見晴らしの番小屋
翌日の午後、三人は春口の町外れへ向かった。
駅へ上がる坂でも、港へ下る坂でもない、もう一本の細い道だった。
宿の裏手から少し回り込み、古い家並みの切れた先を、山とも海ともつかない斜面に沿ってのびていく。
最初はふつうの生活道に見える。
洗濯物の揺れる軒先、軽トラックの停まる空き地、夏の匂いを持ちはじめた草むら。
だが少し進むと、道は急に人の気配を薄くしていった。
舗装はされているが狭い。
海が見えるようで見えない。
風は通るのに、町の音はもう直接は届かない。
春口の中にありながら、すでに“春口の外側”へ入っていく感じがあった。
「ほんとうに」
湊が歩きながら言う。
「気持ちだけ急に遠くなりますね」
「ええ」
汐里が頷く。
「町から離れている距離以上に、切り替わる感じがある」
「岬って、そういう場所なのかもしれません」
「動くための場所じゃないからですか」
「たぶん」
篠原は先を歩きながら、ときどき振り返って足元を確かめるようにした。
今日は布鞄のほかに、昨日見せた古い双眼鏡を肩から下げている。
海を“見るための道”へ向かっていることが、その姿だけでもよく分かった。
途中から、道はさらに細くなった。
片側に低い石垣、もう片側に斜面の草。
ところどころで木が枝を張り出し、葉の隙間からようやく海の白さが見える。
まだ夕凪には早いが、風はたしかに弱い。
葉擦れの音より、遠くから来る船のエンジンのほうがかすかに耳へ届く。
町の中では分からないが、ここまで来ると春口という土地が“音の届き方”でもできていることがよく分かった。
「父も」
汐里が前を見たまま言う。
「この道を歩いたんでしょうか」
「可能性は高いですね」
篠原が答える。
「少なくとも、岬へ立つならこの道しかない」
「霧の朝のあとに」
湊が言う。
「ええ。駅から下り、港側へ回り、その先でまだ何かを見ようとしたなら」
「……」
「この道を上がったはずです」
その言葉だけで、湊の胸の内側に静かな緊張が走った。
霧のホームで半歩ずつ遅れ、発車後のホームに取り残され、下りへ接続を追った父。
その先に、この道がある。
つまり第六作は、第五作の終点ではなく、そのさらに先の“視線の続きを辿る巻”なのだ。
父はここへ何を見に来たのか。
澄江もまた、何を見届けようとしていたのか。
千紘は、この場所からどう見えていたのか。
道を上がるたび、その問いが少しずつ具体になっていくようだった。
やがて前方が開け、斜面の上に小さな平地が現れた。
そこに、番小屋の跡があった。
小屋といっても、もう壁の半分ほどしか残っていない。
木の柱は褪せ、屋根は張り替えられていないまま少し沈み、海側の窓は大きく開いたままだ。
だが、その崩れかけた姿でさえ、ここが“ただの休憩所”ではなかったことはすぐ分かる。
窓の向こうに、春口の港から沖の島影までが一気にひらけていた。
駅の赤い屋根も見える。
防波堤も、船の航路も、遠くの白い筋のような波も見える。
春口の町全体が、ここからなら小さな模型のように一望できた。
「……すごいですね」
湊は思わず言った。
「ええ」
汐里も息をのむように答える。
「駅も見える」
「港も」
「宿はさすがに分かりませんが」
篠原が言った。
「位置はだいたい掴めるでしょう」
「町が全部入る」
湊が呟く。
「そうです」
篠原は岬の先を見ながら言った。
「ここは、春口の人間が“町の中にいながら町全体を外から見る”ための場所だったんです」
その言い方が、第六作の主題にぴたりとはまった。
駅や港や宿の中にいるあいだ、人はいつもその場所の時間の中にいる。
だが岬では違う。
そこからは、町全体を一つの流れとして見られる。
列車が入り、船が出て、道が坂を上下し、人がどこかで止まり、またどこかへ向かう。
父がもしここに立ったのなら、それはもう“追う側”というより、“見届ける側”へ移ったということなのかもしれなかった。
番小屋の中には、先客がいた。
小柄な老人で、浅い色の作業帽をかぶり、折りたたみ椅子に腰を下ろしている。
年は八十を大きく越えているように見えたが、目だけは妙に遠くまで届く目だった。
近くを見る人ではなく、海の向こうを長く見てきた人の目だとすぐに分かった。
「瀬尾さん」
篠原が声をかける。
「お待たせしました」
「待っとらんよ」
老人は言った。
「ここは、待つ場所やない。見る場所や」
その返し方に、汐里が少しだけ笑った。
湊も、なるほどと思った。
番小屋は、港の待合や駅の待合とは違う。
何かを待つためではなく、動いていくものを見ておくための場所。
それが岬の小屋なのだろう。
「瀬尾直吉さんです」
篠原が紹介した。
「昔、この小屋の見張りや手伝いをされていた」
「湊です」
「三崎汐里です」
二人が頭を下げると、瀬尾はそれぞれの顔をゆっくり見た。
とくに汐里の顔には少し長く視線を留める。
「澄江さんに似とる」
瀬尾が言った。
「目の向こうのほうが」
汐里は、その言葉に小さく息をのんだが、すぐに「ありがとうございます」とだけ答えた。
番小屋の前は、夕方へ向かう海がゆっくり光を変え始めていた。
まだ夕凪ではない。
だが風は弱まりつつあり、水面の細かい揺れも次第に丸くなっていく。
瀬尾はその変化を横目で見ながら、あまり前置きなく話し始めた。
「篠原さんからは聞いとる」
「ええ」
「昔、この岬へ立っとった人の話やろ」
「はい」
湊が答える。
「父や、三崎澄江さんのことを」
「名前までは、全部は覚えとらん」
瀬尾は正直に言った。
「けど、“どういう人がここへ来るか”は覚えとる」
「どういう人ですか」
汐里が訊く。
「待っとる人やない」
「……」
「もう待てんようになった人や」
その一言で、場の空気が少し変わった。
待っている人ではない。
もう待てなくなった人。
それは駅や港や宿にいた人たちとは、半歩違う場所にいる人間なのだろう。
待つことをやめたのではない。
だが、待つだけでは足りず、最後に自分の目で何かを見ておかなければならなくなった人。
岬とは、そのための場所なのかもしれない。
「ここへ来る人は」
瀬尾が続ける。
「たいてい黙っとる」
「ええ」
「泣きもせんし、叫びもせん。そういうのは町の中で済ませてくる」
「……」
「ここでは、見る」
「何を」
湊が訊くと、瀬尾は海の向こうを顎で示した。
「自分が間に合わんかったものの、行く先や」
その言葉は、第五作の父の朝とまっすぐにつながっていた。
間に合わなかったものの、行く先。
列車に乗れなかった。
見送りきれなかった。
それでも、その先でどこへ行ったのか、どこまで行くのかを、自分の目で見届けようとする。
それが岬に立つ人の心理なのだろう。
「若い男も」
瀬尾がぽつりと言った。
「たしかにおった」
「父、かもしれません」
湊が言う。
「霧のころですか」
「そうやな。霧の明けた日のような気もする」
「……」
「海の方ばかり見とった。せやけど、追いつきたい顔やなかった」
「追いつきたい顔じゃない」
「うん」
「では」
「見とかんと終われん顔やった」
その表現に、湊は胸の奥を掴まれる感じがした。
見とかんと終われん顔。
追いかけたいのではない。
もう追いつけないかもしれない。
それでも、自分の目でその先を見ておかなければ、その朝は終わらない。
父は、その段階まで来てこの岬へ立ったのかもしれない。
「母も」
汐里が静かに訊く。
「ここへ来ていましたか」
瀬尾は少し考えた。
それから、確かめるように汐里の顔をもう一度見て言った。
「若い女の人もおった」
「……」
「何度か」
「何を見ていたんでしょう」
「沖やない」
瀬尾は言う。
「町のほうや」
「町」
「駅も、港も、あの坂道も、一度に見ようとしてた」
その答えは、意外であり、同時に澄江らしくもあった。
父が“その先”を見に来たとすれば、澄江は“その全体”を見に来ていたのかもしれない。
駅、港、宿、島への道。
自分の人生が分かれてしまった場所を、全部まとめて視野に入れようとした。
岬は、そういう見方のできる場所なのだろう。
「白い帽子の子は」
湊が思わず訊く。
瀬尾の目が少しだけ細くなる。
「おったかもしれん」
「かもしれない」
「はっきりは覚えとらん」
それでも老人はすぐには言葉を切らなかった。
「けどな」
「はい」
「大人より、よう海を見とる子はおった」
「……」
「待つ子やない」
「では」
「自分が行く方角を、先に見とる子や」
その一言に、汐里が小さく息を呑むのが分かった。
千紘。
それが本当に彼女かどうかは断定できない。
だが、“自分が行く方角を先に見ている子”という表現は、第五作までで見えてきた千紘の静けさとひどくよく重なっていた。
大人が待ち、迷い、半歩遅れるあいだに、子どものほうが先に去る方向を見ている。
それは悲しいほど、千紘らしかった。
しばらくして、風がさらに弱くなった。
水面の細かな皺が消え、沖の船影が少しだけくっきりしてくる。
瀬尾が「ああ、来るな」と呟いた。
「何がですか」
湊が訊く。
「夕凪や」
老人は海を見たまま答える。
「この時間になると、あの子らが何を見てたか少し分かる」
岬の空気が、そこでひとつ静まり返った気がした。
夕凪。
風が止まり、海が一瞬だけ何もかも映すようになる時間。
第六作の本当の入り口は、いまここから始まるのかもしれないと、湊は静かに思った。




