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潮待ちのレール ― 夕凪の岬 ―  作者: たむ


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2/5

第二章 見晴らしの番小屋

 翌日の午後、三人は春口の町外れへ向かった。


 駅へ上がる坂でも、港へ下る坂でもない、もう一本の細い道だった。

 宿の裏手から少し回り込み、古い家並みの切れた先を、山とも海ともつかない斜面に沿ってのびていく。

 最初はふつうの生活道に見える。

 洗濯物の揺れる軒先、軽トラックの停まる空き地、夏の匂いを持ちはじめた草むら。

 だが少し進むと、道は急に人の気配を薄くしていった。

 舗装はされているが狭い。

 海が見えるようで見えない。

 風は通るのに、町の音はもう直接は届かない。

 春口の中にありながら、すでに“春口の外側”へ入っていく感じがあった。


「ほんとうに」

 湊が歩きながら言う。

「気持ちだけ急に遠くなりますね」

「ええ」

 汐里が頷く。

「町から離れている距離以上に、切り替わる感じがある」

「岬って、そういう場所なのかもしれません」

「動くための場所じゃないからですか」

「たぶん」


 篠原は先を歩きながら、ときどき振り返って足元を確かめるようにした。

 今日は布鞄のほかに、昨日見せた古い双眼鏡を肩から下げている。

 海を“見るための道”へ向かっていることが、その姿だけでもよく分かった。


 途中から、道はさらに細くなった。

 片側に低い石垣、もう片側に斜面の草。

 ところどころで木が枝を張り出し、葉の隙間からようやく海の白さが見える。

 まだ夕凪には早いが、風はたしかに弱い。

 葉擦れの音より、遠くから来る船のエンジンのほうがかすかに耳へ届く。

 町の中では分からないが、ここまで来ると春口という土地が“音の届き方”でもできていることがよく分かった。


「父も」

 汐里が前を見たまま言う。

「この道を歩いたんでしょうか」

「可能性は高いですね」

 篠原が答える。

「少なくとも、岬へ立つならこの道しかない」

「霧の朝のあとに」

 湊が言う。

「ええ。駅から下り、港側へ回り、その先でまだ何かを見ようとしたなら」

「……」

「この道を上がったはずです」


 その言葉だけで、湊の胸の内側に静かな緊張が走った。

 霧のホームで半歩ずつ遅れ、発車後のホームに取り残され、下りへ接続を追った父。

 その先に、この道がある。

 つまり第六作は、第五作の終点ではなく、そのさらに先の“視線の続きを辿る巻”なのだ。

 父はここへ何を見に来たのか。

 澄江もまた、何を見届けようとしていたのか。

 千紘は、この場所からどう見えていたのか。

 道を上がるたび、その問いが少しずつ具体になっていくようだった。


 やがて前方が開け、斜面の上に小さな平地が現れた。

 そこに、番小屋の跡があった。


 小屋といっても、もう壁の半分ほどしか残っていない。

 木の柱は褪せ、屋根は張り替えられていないまま少し沈み、海側の窓は大きく開いたままだ。

 だが、その崩れかけた姿でさえ、ここが“ただの休憩所”ではなかったことはすぐ分かる。

 窓の向こうに、春口の港から沖の島影までが一気にひらけていた。

 駅の赤い屋根も見える。

 防波堤も、船の航路も、遠くの白い筋のような波も見える。

 春口の町全体が、ここからなら小さな模型のように一望できた。


「……すごいですね」

 湊は思わず言った。

「ええ」

 汐里も息をのむように答える。

「駅も見える」

「港も」

「宿はさすがに分かりませんが」

 篠原が言った。

「位置はだいたい掴めるでしょう」

「町が全部入る」

 湊が呟く。

「そうです」

 篠原は岬の先を見ながら言った。

「ここは、春口の人間が“町の中にいながら町全体を外から見る”ための場所だったんです」


 その言い方が、第六作の主題にぴたりとはまった。

 駅や港や宿の中にいるあいだ、人はいつもその場所の時間の中にいる。

 だが岬では違う。

 そこからは、町全体を一つの流れとして見られる。

 列車が入り、船が出て、道が坂を上下し、人がどこかで止まり、またどこかへ向かう。

 父がもしここに立ったのなら、それはもう“追う側”というより、“見届ける側”へ移ったということなのかもしれなかった。


 番小屋の中には、先客がいた。

 小柄な老人で、浅い色の作業帽をかぶり、折りたたみ椅子に腰を下ろしている。

 年は八十を大きく越えているように見えたが、目だけは妙に遠くまで届く目だった。

 近くを見る人ではなく、海の向こうを長く見てきた人の目だとすぐに分かった。


「瀬尾さん」

 篠原が声をかける。

「お待たせしました」

「待っとらんよ」

 老人は言った。

「ここは、待つ場所やない。見る場所や」

 その返し方に、汐里が少しだけ笑った。

 湊も、なるほどと思った。

 番小屋は、港の待合や駅の待合とは違う。

 何かを待つためではなく、動いていくものを見ておくための場所。

 それが岬の小屋なのだろう。


「瀬尾直吉さんです」

 篠原が紹介した。

「昔、この小屋の見張りや手伝いをされていた」

「湊です」

「三崎汐里です」

 二人が頭を下げると、瀬尾はそれぞれの顔をゆっくり見た。

 とくに汐里の顔には少し長く視線を留める。


「澄江さんに似とる」

 瀬尾が言った。

「目の向こうのほうが」

 汐里は、その言葉に小さく息をのんだが、すぐに「ありがとうございます」とだけ答えた。


 番小屋の前は、夕方へ向かう海がゆっくり光を変え始めていた。

 まだ夕凪ではない。

 だが風は弱まりつつあり、水面の細かい揺れも次第に丸くなっていく。

 瀬尾はその変化を横目で見ながら、あまり前置きなく話し始めた。


「篠原さんからは聞いとる」

「ええ」

「昔、この岬へ立っとった人の話やろ」

「はい」

 湊が答える。

「父や、三崎澄江さんのことを」

「名前までは、全部は覚えとらん」

 瀬尾は正直に言った。

「けど、“どういう人がここへ来るか”は覚えとる」

「どういう人ですか」

 汐里が訊く。

「待っとる人やない」

「……」

「もう待てんようになった人や」


 その一言で、場の空気が少し変わった。

 待っている人ではない。

 もう待てなくなった人。

 それは駅や港や宿にいた人たちとは、半歩違う場所にいる人間なのだろう。

 待つことをやめたのではない。

 だが、待つだけでは足りず、最後に自分の目で何かを見ておかなければならなくなった人。

 岬とは、そのための場所なのかもしれない。


「ここへ来る人は」

 瀬尾が続ける。

「たいてい黙っとる」

「ええ」

「泣きもせんし、叫びもせん。そういうのは町の中で済ませてくる」

「……」

「ここでは、見る」

「何を」

 湊が訊くと、瀬尾は海の向こうを顎で示した。


「自分が間に合わんかったものの、行く先や」

 その言葉は、第五作の父の朝とまっすぐにつながっていた。

 間に合わなかったものの、行く先。

 列車に乗れなかった。

 見送りきれなかった。

 それでも、その先でどこへ行ったのか、どこまで行くのかを、自分の目で見届けようとする。

 それが岬に立つ人の心理なのだろう。


「若い男も」

 瀬尾がぽつりと言った。

「たしかにおった」

「父、かもしれません」

 湊が言う。

「霧のころですか」

「そうやな。霧の明けた日のような気もする」

「……」

「海の方ばかり見とった。せやけど、追いつきたい顔やなかった」

「追いつきたい顔じゃない」

「うん」

「では」

「見とかんと終われん顔やった」


 その表現に、湊は胸の奥を掴まれる感じがした。

 見とかんと終われん顔。

 追いかけたいのではない。

 もう追いつけないかもしれない。

 それでも、自分の目でその先を見ておかなければ、その朝は終わらない。

 父は、その段階まで来てこの岬へ立ったのかもしれない。


「母も」

 汐里が静かに訊く。

「ここへ来ていましたか」

 瀬尾は少し考えた。

 それから、確かめるように汐里の顔をもう一度見て言った。


「若い女の人もおった」

「……」

「何度か」

「何を見ていたんでしょう」

「沖やない」

 瀬尾は言う。

「町のほうや」

「町」

「駅も、港も、あの坂道も、一度に見ようとしてた」

 その答えは、意外であり、同時に澄江らしくもあった。

 父が“その先”を見に来たとすれば、澄江は“その全体”を見に来ていたのかもしれない。

 駅、港、宿、島への道。

 自分の人生が分かれてしまった場所を、全部まとめて視野に入れようとした。

 岬は、そういう見方のできる場所なのだろう。


「白い帽子の子は」

 湊が思わず訊く。

 瀬尾の目が少しだけ細くなる。

「おったかもしれん」

「かもしれない」

「はっきりは覚えとらん」

 それでも老人はすぐには言葉を切らなかった。

「けどな」

「はい」

「大人より、よう海を見とる子はおった」

「……」

「待つ子やない」

「では」

「自分が行く方角を、先に見とる子や」


 その一言に、汐里が小さく息を呑むのが分かった。

 千紘。

 それが本当に彼女かどうかは断定できない。

 だが、“自分が行く方角を先に見ている子”という表現は、第五作までで見えてきた千紘の静けさとひどくよく重なっていた。

 大人が待ち、迷い、半歩遅れるあいだに、子どものほうが先に去る方向を見ている。

 それは悲しいほど、千紘らしかった。


 しばらくして、風がさらに弱くなった。

 水面の細かな皺が消え、沖の船影が少しだけくっきりしてくる。

 瀬尾が「ああ、来るな」と呟いた。


「何がですか」

 湊が訊く。

「夕凪や」

 老人は海を見たまま答える。

「この時間になると、あの子らが何を見てたか少し分かる」


 岬の空気が、そこでひとつ静まり返った気がした。

 夕凪。

 風が止まり、海が一瞬だけ何もかも映すようになる時間。

 第六作の本当の入り口は、いまここから始まるのかもしれないと、湊は静かに思った。

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