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潮待ちのレール ― 夕凪の岬 ―  作者: たむ


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第一章 岬へ向かう道

 春口の町は、どこかへ向かうための道ばかりでできているように見える。


 駅へ上がる坂。

 港へ下る坂。

 島へ渡る船着場へ続く道。

 宿の裏手から海沿いへ抜ける細道。

 これまで何度も春口へ戻ってきて、湊はそのことをずっと感じていた。

 この町では、道は単に場所と場所をつなぐものではない。

 人が迷いながら、それでもどこかへ身体を運ぶための時間そのものなのだ。

 第一作で父のノートを辿ったときも、第二作で船着場の午後を見送ったときも、第三作で島の便を乗り継いだときも、第四作で宿の離れを知ったときも、第五作で霧のホームに立ったときも、いつも最後には道が残った。

 そして第六作では、その道がいよいよ町の外れへ向かう。

 駅でも港でも宿でもない、もっと先。

 見送ることも、追うことも、いったん止まってしまうような場所へ。


 その年の夏の入り口、湊が再び春口へ戻った日は、海に風の少ない朝だった。


 梅雨はまだ完全には明けていない。

 けれど空の色は、もう春の終わりではなく夏の前触れを含んでいる。

 海沿いを走る列車の窓から見える瀬戸内は、光を深く溜めた青ではなく、少し白さを持った銀に近かった。

 島影は輪郭だけを濃くして浮き、防波堤の上には小さな人影がある。

 まだ観光の賑わいには早い。

 けれど生活だけでできているわけでもない。

 春口がもっとも“途中の町”らしく見える季節かもしれないと、湊は思った。


 春口駅へ着くと、ホームには湿りを含んだ熱があった。

 霧のホームの巻を終えてから、この駅の見え方は少し変わっている。

 白線。

 待合室。

 ホームの端。

 下りへつながるレール。

 それらはもうただの設備ではなく、父が半歩ずつ遅れ、見送りきれず、それでも最後に海側を追った朝の具体として湊の中に残っていた。

 だから今回は、その先へ行くのだと自然に思えた。

 父が最後に何を見ようとしていたのか。

 それを知るには、駅だけでは足りないのだろう。


 改札の外には汐里がいた。

 白いブラウスに、薄い藍色のカーディガン。

 第四作のころよりも、町の中で立つ姿が自然になっている。

 宿の主であり、春口の時間を自分の中で引き受けている人の立ち方だった。


「おかえりなさい」

 彼女が言う。

「ただいま」

「暑くなってきましたね」

「ええ」

「でも、岬へ行くにはちょうどいいかもしれません」

「もうその話なんですね」

 湊が言うと、汐里は少しだけ笑った。

「今回は、最初からそこなので」


 岬。

 篠原が前回の最後にほのめかした、春口の外れの見晴らし。

 港へ入る船も、沖へ出る便も、遠い島影も見渡せる場所。

 町の人間が“出ていくものを最後に見る場所”でもあったという。

 第五作の霧のホームが、見送りきれなかった朝の場所だとしたら、第六作の岬はそのさらに先、“見届けること”のための場所なのだろう。


 宿へ向かう坂道を下りながら、湊は海のほうを見た。

 今日は風がほとんどない。

 港の水面も大きくは揺れていない。

 ただ、完全な凪とも違う。

 動く前の静けさ。

 夕凪ではなく、まだ昼へ向かう前の、準備のような静けさだった。


「篠原さんが」

 汐里が言った。

「昨日、また資料を持ってきてくれました」

「岬のことですか」

「ええ。古い道筋と、番小屋の話」

「番小屋」

「昔、港へ入る船や沖の天気を見るために使っていた小さな小屋があったそうです」

「じゃあ、ただの景色の場所じゃない」

「はい。人が“見るために立つ場所”だったみたいです」


 その表現に、湊は強く惹かれた。

 見るために立つ場所。

 駅は動くための場所。

 港は渡るための場所。

 宿は一夜を預かる場所。

 では岬は、見るために立つ場所。

 そこでは人は移動せず、ただ遠くを見届ける。

 春口という町の構造を考えれば、そんな場所があっても不思議ではない。

 むしろ今までその存在に触れてこなかったことのほうが、不自然に思えるほどだった。


 宿へ着くと、帳場の奥の灯りは昼の明るさに沈みながらも、ちゃんと点いていた。

 夏へ向かう季節の光は強い。

 それでもこの宿の灯りは、夜だけでなく昼にも意味を持っている。

 第四作でそう知ってから、帳場を見るたび、澄江の「朝までをつなぐ湯と灯り」という言葉が浮かぶ。

 第六作では、その灯りが岬の視線とどうつながるのかも見えてくるのだろうかと、湊はぼんやり考えていた。


 荷物を置いたあと、居間で茶を出される。

 その卓の上に、すでに古い地図が広げられていた。

 篠原の字でところどころ書き込みがある。

 春口駅。

 港。

 宿。

 そこからさらに細い道が町の外れへ伸び、最後に岬らしき突端へ至っていた。


「思ったより遠いですね」

 湊が言う。

「そうなんです」

 汐里が頷く。

「歩けなくはない。でも“散歩で行く場所”ではない」

「何かを見るつもりで行く距離ですね」

「ええ」

「父がそこへ行った可能性がある」

「篠原さんはそう考えてます」

「お母さんも?」

「それが」

 汐里は少し考えるように視線を落とした。

「母の仕事ノートの後ろに、岬の名前らしい断片がありました」

「断片」

「“凪のころ、あの場所は遠い船を近く見せる”って」

「……」

「はっきり岬の名前は書いていないけど、たぶんそのことだと思う」

「澄江さんも行っていた」

「はい。しかも一度だけじゃない感じです」


 その一言で、岬は一気に遠い景勝地ではなくなった。

 父だけではない。

 澄江もまた、その場所に立っていた可能性がある。

 父、澄江、そしておそらく千紘。

 彼らがそれぞれ別の時期に同じ場所を見ていたのだとしたら、第六作はまさにシリーズ前半の大きな交点になるだろう。


 午後、篠原がやって来た。

 今日の布鞄はいつもより薄い。

 代わりに、細長い木箱のようなものを抱えている。

 居間へ上がるなり、地図の端を押さえて言った。


「岬までの道は、今はかなり草が伸びています」

「歩けますか」

 湊が訊く。

「ええ。だが一人ではおすすめしません」

「やっぱりそういう場所なんですね」

「春口の外れというのは、たいていそういうものです」

 篠原はわずかに笑った。

「町から近いのに、気持ちは急に遠くなる」


 その表現もまた、春口らしい。

 距離としては近い。

 だが、気持ちは急に遠くなる。

 島へ行く便も、港の待合も、霧のホームも、いつもそうだった。

 物理的な距離と、人が感じる遠さは、この町では簡単に一致しない。


「これは」

 篠原が木箱を開く。

「昔の双眼鏡です」

「岬の番小屋で?」

「そう。瀬尾さんという老漁師が持っていたものを、いまだけ借りています」

「瀬尾さん」

 汐里が言う。

「岬のことを知っている」

「ええ。若いころ、あの小屋の見張りを少し手伝っていたそうです」

「父や母のことも?」

「直接名前を覚えているかは分からない」

 篠原は正直に言った。

「でも、“岬に立っていた人の種類”については覚えているかもしれません」


 岬に立っていた人の種類。

 それは、実に興味深い言い方だった。

 誰が立ったか、ではなく、どんな人が立つ場所だったのか。

 駅には発車前に迷う人がいた。

 宿には帰れない夜の人がいた。

 では岬には、どんな人が立つのか。

 見送りきれなかった人。

 あるいは、見届けたい人。

 その違いが、第六作では重要になるのだろう。


 篠原は地図の先端、岬の部分を指で叩いた。


「ここへ行くと」

「ええ」

「町が急に小さく見えます」

「港も、駅も」

「はい。ぜんぶ入る」

「それは」

 湊が低く言う。

「かなり大きいですね」

「ええ。だから私は」

 篠原は少しだけ言葉を選んだ。

「父親が最後にそこへ立った可能性を、前から少し考えていました」

「どうしてですか」

「霧のホームで遅れ、下りを追った人間が、そのまま港だけで終わるとは思えなかったからです」

「……」

「追いつけなかったのなら、最後に“どこまで行ったのかを見る場所”へ行くしかない」

「見届けるために」

「そうです」


 その一言で、第六作の主題が体の中へ入ってきた気がした。

 追うこと。

 待つこと。

 見送ること。

 ここまでのシリーズは、主にその三つでできていた。

 第六作では、そこからさらに一歩進む。

 見届けること。

 間に合わなかったあとで、なお何かを見届けるために人が立つ場所。

 それが岬なのだろう。


「明日」

 汐里が言った。

「行きましょう」

「ええ」

 湊も頷く。

「夕方がいいと思います」

 篠原が言う。

「どうして」

「夕凪のころが、あの岬はいちばん本来の顔になるからです」

「夕凪」

「風が止まると、海が一度だけ動きを忘れたようになります」

「……」

「そのとき、遠い船も、島影も、妙にはっきり見える」

「凪の宿、の次が夕凪の岬なんですね」

 湊が言うと、篠原はわずかに笑った。

「春口は、そういうふうにつながっていますから」


 その夜、湊は二階の部屋で窓を開けた。

 港の向こうの海には、昼の名残の光がまだ少し残っている。

 風は弱い。

 船の音も遠い。

 明日、自分たちは岬へ向かう。

 父が最後に何を見ようとしたのか。

 澄江がなぜその場所へ立ったのか。

 千紘はそこからどのように見えていたのか。

 駅や港や宿では届かなかったものに、ようやく触れられるかもしれない。

 春口の物語はいつも、場所を変えるごとに別の深さを見せる。

 第六作の岬は、その中でもおそらく最も遠く、そして最も静かな場所なのだろう。

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