第三章 夕凪の時間
風が止む、ということが、これほどはっきり分かるものなのかと湊は思った。
それまでたしかに吹いていたはずのものが、音もなく引いていく。
草の先の揺れが収まり、番小屋の傷んだ板の隙間を抜けていた細い風の気配も消える。
海面の細かな皺がひとつずつほどけ、遠くの船影が急に近くなったように見えた。
夕凪だった。
町の中にいれば、ただ「今日は風がない」と感じるだけの時間かもしれない。
だが岬の先では、それははっきりと一つの移り変わりとして現れる。
動いていたものが止まり、遠かったものが少しだけ近づく。
その静けさは、ただ穏やかなのではなく、むしろ張りつめていた。
何かを見届けるには、こういう時間が必要なのかもしれないと、湊は思った。
瀬尾は番小屋の前で、折りたたみ椅子にもたれたまま海を見ていた。
その横顔は、もう三人のほうを向いていない。
話をする人の顔ではなく、長年同じ時間を見てきた人の顔だった。
「ほら」
老人が言う。
「船が止まって見えるやろ」
たしかに、沖をゆっくり動いているはずの小さな貨物船が、今は海に置かれた模型のように見えた。
動いてはいる。
だが、目がそれをすぐには追えない。
夕凪の海では、速度より輪郭のほうが先に立つのだ。
「遠いものが」
汐里が小さく言う。
「近く見えますね」
「そうや」
瀬尾が頷く。
「凪のころは、よう見える」
「だから母のノートに」
湊が言う。
「“あの場所は遠い船を近く見せる”って」
「そうやろな」
瀬尾は海から目を離さずに答えた。
「近く見えるいうのは、届くいうことやない」
「……」
「ただ、見とかんといかんものが、よう見えるだけや」
その言葉は、第六作の主題そのもののように響いた。
届くことと、見えることは違う。
追いつくことと、見届けることも違う。
父はきっと、もう追いつけないかもしれないと知ったあとで、それでもここへ来た。
ならば彼が求めていたのは、回復ではなく確認だったのかもしれない。
自分が間に合わなかったものが、たしかにどこへ向かったのか。
その行き先を、自分の目で見ること。
それだけでも、朝の未完了を少しは引き受けられると、どこかで思ったのだろうか。
瀬尾が双眼鏡を差し出した。
古い真鍮の重みが掌に移る。
湊がそれを覗くと、沖の船影が一気に大きくなった。
船腹の色、甲板の影、波の筋。
目だけで見ていたときにはただの遠い点だったものが、急に手に取れるほど具体になる。
しかし、それでもその船は遠いままだ。
そこに届くわけではない。
夕凪の見え方とは、たぶんそういうことなのだろう。
距離を消すのではない。
距離を保ったまま、輪郭だけを鮮明にする。
「父も」
湊が双眼鏡を下ろして言った。
「こうやって見ていたんでしょうか」
「使う人もおったし、使わん人もおった」
瀬尾が答える。
「若い男は、あまり使わんかった気がする」
「どうしてですか」
「見えすぎるのが、しんどい人もおる」
「……」
「肉眼でぎりぎり見えるくらいのほうが、自分をごまかせるからな」
その言い方に、胸の奥が静かに痛んだ。
父は、見えすぎることを避けたのかもしれない。
それでも岬へ来た。
見なくては終われない。
だが、はっきり見えすぎるのもつらい。
その矛盾した気持ちは、いかにも父らしく、そしてこのシリーズの人物らしかった。
「澄江さんは」
汐里が訊いた。
「双眼鏡を使いましたか」
「女の人は使っとった」
瀬尾が言う。
「よく覗いとった」
「何を」
「船だけやない」
老人はようやく少しこちらを見た。
「町のほうも」
「町を?」
「駅の屋根、港、坂道、あとは煙」
「煙」
「夕方になると、飯の支度の煙が少し見えた」
その情景に、汐里の表情がかすかに動いた。
澄江は、去っていくものだけでなく、町に残っている生活の気配も見ていたのだ。
駅も、港も、家々の煙も。
おそらくそれは、春口という町を“傷の場所”としてだけでなく、“いま暮らしが続いている場所”として見直すためだったのだろう。
「母は」
汐里が、ほとんど独り言のように言った。
「何を確かめたかったんでしょう」
「全部やないか」
瀬尾があっさり答えた。
「全部?」
「出ていくもんも、残るもんも」
「……」
「間に合わんかったことだけ見たら、人はそこで固まる」
「ええ」
「せやけど、町はそのあとも動く」
「駅も、港も」
湊が言う。
「そうや」
瀬尾は頷いた。
「女の人は、それを見とった」
その一言で、第三作から第四作にかけて見えてきた澄江の輪郭が、また少し深くなった。
澄江は、ただ去ったものや届かなかったものに囚われていたのではない。
そのあとも春口が生活を続けていること、駅も港も止まらず、宿も灯りを残すことを、ここから見ていたのだろう。
見送りきれなかった過去と、なお続いていく現在。
その両方を視界に入れるために、岬へ立っていたのかもしれない。
夕凪はさらに深くなった。
海面が一枚の大きな金属板のように光を返し始める。
島影は青というより、少し紫を含んだ灰色に変わり、その輪郭だけが濃くなる。
遠いものほどよく見えるのに、どこか現実から少し離れて見える。
まるで、記憶がいちばん鮮明になった瞬間だけ、逆に手の届かなさも増すように。
「白い帽子の子は」
瀬尾がふいに言った。
三人とも顔を向ける。
「海をずっと見とったわけやない」
「では」
湊が訊く。
「岬の先と、町を交互に見とった」
「町を」
「うん。よう知っとる子みたいに」
「……」
「行く先より、残るほうも見とる感じやった」
その言葉は、千紘の像をまた少し変えた。
去る子どもは、ふつう自分の行くほうを見る。
だがその子は、町も見ていた。
残るものも見ていた。
それは、ただ大人に振り回される子どもではない。
去る側にいながら、残される側の視線も少し先に引き受けていた子なのかもしれない。
「千紘……」
汐里が小さく呟いた。
断定はできない。
けれど、その呼び方がいちばん自然に思えた。
去るほうを見ながら、町も見る。
大人より先に静かになり、大人より先に行く先を引き受ける。
それは第五作までで見えてきた千紘の静けさと、あまりにもよく重なっていた。
「父は」
湊が低く言う。
「そんな千紘を、ここで見たんでしょうか」
「見たかもしれん」
瀬尾は答える。
「せやけどな」
「はい」
「男がほんまに見とったのは、あの子そのものというより」
「……」
「自分が、見送りきれんかったことの行き先やと思う」
その言葉で、湊の中の何かが静かに定まった。
父は千紘を“追おうとした”。
それは第五作で見えてきた。
だが第六作ではさらに先がある。
岬へ立った父が見ていたのは、ただの少女の後ろ姿ではない。
自分が見送りきれなかった朝が、その先でどう続いていくのか、その行き先そのものだったのかもしれない。
それはもう、取り戻しではない。
見届けだった。
「相沢さん」
汐里が小さく言った。
「はい」
「お父さん、ここでようやく“追う”のをやめたのかもしれませんね」
「ええ」
湊は答えた。
「たぶん」
「代わりに」
「見届けるほうへ移った」
「……」
「そうだと思います」
夕凪の時間は、何かを激しく変えるわけではない。
ただ、動いていたものを一度静める。
それによって、人の視線だけがはっきりする。
父も、澄江も、そして千紘も、それぞれ別の時期にこの場所で同じ静けさを見ていたのだとしたら、この岬はシリーズの中でもっとも深く“視線が交差する場所”なのだろう。
しばらく誰も喋らなかった。
小屋の柱の向こうに、春口の町が小さく広がっている。
駅。
港。
坂道。
宿のあるあたり。
それらすべてが、この距離からだと一つの連なりの中に入る。
町の中にいたときには、別々の出来事に見えたものが、ここへ来ると全部つながって見えた。
父の遅れた朝も、澄江の宿の灯りも、千紘の静けさも、みなこの小さな町の時間の流れの中にあったのだろう。
やがて瀬尾が、ぽつりと付け加えた。
「ここへ来る人はな」
「はい」
湊が応じる。
「見えてしまうから、楽になるわけやない」
「ええ」
「むしろ、よう見えたぶんだけ、自分が間に合わんかったことがはっきりする」
「……」
「それでも来るんは、見んかったことにできんからや」
それが、見届けるということなのかもしれない。
救いではない。
忘却でもない。
ただ、見なかったことにしない。
間に合わなかったものの先を、自分の目の届くかぎりで見ておく。
第六作がこれから描こうとしているのは、その態度なのだろうと、湊は静かに思った。




