最凶の魔王、神殿を訪れる
最凶の魔王、神殿を訪れる
大神殿は、王都の中心に聳えていた。
白亜の石壁に金の装飾。七色に輝くステンドグラスの窓。天を衝くような尖塔が三本並び、その頂点から朝日を受けた聖旗がはためいている。
ヴァルゼンは、その威容を見上げて——完全に固まっていた。
(でかい。でかすぎる。王城より大きいんじゃないか)
「壮観だな!」
エルヴィンが隣で感嘆の声を上げた。
「さすが大陸最大の神殿だ。ここの大神官は、国王と並ぶ権威を持つと言われている」
(国王と並ぶ。つまり怒らせたら国王を怒らせるのと同じ。死ぬ)
正門の前には、白い法衣の神官たちがずらりと整列していた。
出迎えだった。
ヴァルゼンたちが近づくと、神官たちが一斉に頭を下げた。ただし——その表情は、一様ではなかった。
敬意を浮かべる者。好奇心を滲ませる者。そして——明らかに敵意を含んだ目をしている者。
(全員が歓迎しているわけじゃない。当然だ。僕は魔王だ。魔族だ。神殿にとって、本来は敵のはずなんだ)
グリゼルダが、わずかに身を寄せた。
「ヴァルゼン様。神官の中に不穏な気配の者がいます。背中は私にお任せを」
(グリゼルダさんが警戒するレベルの不穏さなの? 帰りたい。今すぐ帰りたい)
神殿の内部は、外観以上に圧倒的だった。
天井は遥か頭上にあり、巨大な柱が列をなして奥へと続いている。壁面のステンドグラスから差し込む光が、床の大理石に虹色の模様を描いている。空気には微かに甘い香が漂い、遠くから聖歌隊の声が反響していた。
ヴァルゼンは——無言だった。
圧倒されて、言葉が出なかった。
魔王軍にいた頃、こんな場所に足を踏み入れることは想像もしなかった。魔族にとって神殿は、侵攻の対象か回避の対象であって、「招かれて訪れる場所」ではなかった。
(すごい。本当にすごい。こんな場所があるのか)
神聖な空気が肌を撫でる。居心地が悪いかと思いきや——不思議と、穏やかな気持ちになった。
(ここは……人の祈りが、積み重なった場所なんだな)
ヴァルゼンの表情が、自然と和らいだ。
その様子を、随行する神官たちは見逃さなかった。
「見よ。魔王が神殿に入り、無言で佇んでいる」
「あの表情……神への畏敬そのものではないか」
「魔族でありながら、聖なる空間に敬意を示すとは——」
ざわめきが広がる。
(いや、普通にきれいだなと思っただけなんだけど……)
中央の大広間に通された。
奥の玉座のような椅子に、一人の老人が座っていた。
大神官ロズモンド。
白銀の長い髭をたくわえ、金糸の法衣をまとった威厳ある老人だった。年齢は八十に近いと聞いているが、背筋は真っ直ぐで、目には知性と気力が漲っている。
「ようこそ、ヴァルゼン殿。——いや、魔王殿と呼ぶべきかな」
声は穏やかだったが、底に鉄を含んでいた。
(怖い。国王陛下とは違う種類の怖さだ。見透かされるような——)
「あ、あの……ヴァルゼンで結構です。お招きいただき、ありがとうございます」
精一杯の礼を述べた。声が裏返らなかっただけ、奇跡だと思った。
大神官が、ゆっくりと目を細めた。
「魔王が神殿を訪れる。かつてならば、戦争の前触れとされたであろう。しかし——時代は変わったようだ」
「は、はい。あの……僕は別に、戦いに来たわけでは——」
「わかっている。そなたの目を見ればわかる」
大神官の老いた目が、ヴァルゼンの目を正面から捉えた。
「善き目をしている。……魔王にあるまじき、善き目だ」
(善き目。善き目って言われた。嬉しいような、魔王としてはどうなのかよくわからないような)
「さて。今日は、いくつか聞きたいことがある」
大神官が身を乗り出した。
「そなたは——神をどう思う?」
(出た。究極の質問が出た)
ヴァルゼンは、頭が真っ白になった。
神。
魔族にとっての神。人間にとっての神。答え方を間違えれば、大陸最大の宗教組織を敵に回す。
(どうする。何と答える。「信じています」は嘘になる。「信じていません」は敵対宣言になる。正解がない。正解がないんだ)
沈黙が流れた。
フェリクスが、背後でわずかに息を呑んだ気配がした。エルヴィンが拳を握り締めている。グリゼルダの手が、剣の柄に触れている。
ヴァルゼンは——口を開いた。
「僕には……正直、わかりません」
嘘をつけなかった。
「でも——ここに入った時、とても穏やかな気持ちになりました。人々がずっと祈り続けてきた場所の空気というのは……すごいなと思いました」
思ったことをそのまま言った。それしかできなかった。
大神官の表情が——変わった。
厳格な老人の顔に、柔らかな微笑みが浮かんだ。
「『わからない』と言えるか。……そなたは正直な男だ」
大神官が立ち上がった。
「多くの者がこの場で、信仰の告白を求められて嘘をつく。『神を信じます』と。しかしそなたは——『わからない』と答え、それでいて祈りの場に敬意を示した」
大神官が、両腕を広げた。
「これぞ——真の敬虔ではないか」
(え? 「わからない」が敬虔? どういう理屈?)
「偽りの信仰よりも、正直な無知。そして無知でありながら聖なるものの前で膝を折る心。これを敬虔と呼ばずして何と呼ぶ」
広間に、ざわめきが走った。
神官たちの反応は、真っ二つに割れた。
「大神官猊下の仰る通りだ。魔王殿は、真の敬虔の体現者だ!」
「馬鹿な! 魔族が敬虔だと? 神への冒涜ではないか!」
「いや、見よ。あの穏やかな佇まいを。魔族にあれほどの聖性が宿るとは——」
「聖性だと? 惑わされるな。あれは魔族の欺瞞だ!」
広間が騒然となった。
賛同する者と反発する者が、明確に分かれ始めている。
(え。ちょっと。何が起きてるの)
ヴァルゼンは困惑して周囲を見回した。
フェリクスが、手帳に猛烈な勢いで書き込んでいた。
「興味深い……宗教組織の分裂の端緒を、たった一言で生み出すとは」
(生み出してない。生み出したくない。分裂とか怖いからやめてほしい)
大神官が、手を上げて静粛を命じた。
「……見解の相違があるようだ。これは今日明日で決まる話ではない。追って議論の場を設ける」
大神官はヴァルゼンに向き直った。
「ヴァルゼン殿。明日、神殿の奥院に案内したい。そなたに見せたいものがある」
(見せたいもの? それは良いものなのか。悪いものなのか)
「あ、あの……それは——」
「聖なる炎だ。千年以上燃え続ける、我が神殿の至宝。……魔王であるそなたが、聖なる炎の前でどのような反応を示すか。それを見届けたい」
大神官の目が、穏やかでありながら——鋭かった。
(試されている。間違いなく試されている。しかも明日って。心の準備が——)
「わ、わかりました」
断る選択肢は、やはりなかった。
神殿を出ると、ミラベルが駆け寄ってきた。
「ヴァルゼン様。……大神官猊下のお言葉、お聞きになりましたか。『真の敬虔』と——」
その目は、いつにも増して潤んでいた。
「ヴァルゼン様は、ご自分の言葉がどれだけ真実を含んでいるか、おわかりでないのでしょうね。……わからないと正直に言えること。それがどれだけ——」
声が詰まった。
「すみません。また泣いてしまって……」
(泣かないでください。僕はただ正直に「わからない」と言っただけなんです)
帰り道。
ザガンが、静かに隣を歩いていた。
「陛下。明日の聖なる炎の件ですが」
「うん……」
「陛下の魔力は微弱ですが、魔王家の血統に由来する特殊な性質を帯びています。聖なる炎と反応する可能性は——ゼロではありません」
(反応? どういう反応? 良い反応? 悪い反応?)
「どちらにせよ、あの神殿内部の空気は既に割れています。崇拝に傾く者と、排除に傾く者。明日の結果次第で——」
ザガンは言葉を切った。
「……決定的な分裂が起きるかもしれません」
ヴァルゼンの胃が、再びきゅっと縮んだ。
(分裂。宗教組織の分裂。僕のせいで。いや僕は何もしてないのに——いや、何もしていないことが原因なのか?)
夜。
天井を見上げながら、ヴァルゼンは思った。
(王都に来てから、事態がどんどん大きくなっている。パーティの中だけだった誤解が、貴族に広がり、王都の流行になり、そして今度は宗教にまで——)
怖かった。
自分の預かり知らないところで、自分をめぐって世界が動いている。
(僕はただの最弱の魔王だ。こんな大きなものを背負える器じゃない。なのに——)
扉の向こうから、エルヴィンの声が聞こえた。
「ヴァルゼン。明日、俺が傍にいるからな。何があっても」
短い言葉だった。
だが、不思議と——少しだけ、胸の重さが軽くなった気がした。
「……ありがとう、エルヴィン」
小さく返事をして、目を閉じた。
明日。聖なる炎の前で、何が起きるのか。
ヴァルゼンにはわからない。
ただ一つわかっているのは——自分がどう振る舞っても、きっと予想外の結果になるということだけだった。
(それだけは、もう確信がある。自信を持つべき場所じゃないけれど)
最弱の魔王と最大の宗教組織。
その運命的な邂逅は、まだ始まったばかりだった。




