『政治的天才』と呼ばないで
『政治的天才』と呼ばないで
仲裁の噂は、火事より速く広がった。
翌日には「二十年の領地争いを一言で解決した男」として王都中で話題になり、その翌日には「百年の争いだった」に上方修正され、三日目には「建国以来の難題」にまで膨らんでいた。
(情報の劣化が速すぎないか。伝言ゲームってレベルじゃないだろ)
そしてヴァルゼンの部屋の前には、朝から行列ができていた。
「ヴァルゼン殿、我が家と隣家の水路問題をご裁定いただきたく——」
「ヴァルゼン殿、嫡男の婚姻に関して両家の意見が割れておりまして——」
「ヴァルゼン殿、領地内の税率をめぐり議会が紛糾しておるのですが——」
(勘弁してくれ)
ヴァルゼンは宿の部屋で、布団を頭から被っていた。
「陛下。お時間です」
ザガンの声が、扉越しに聞こえた。静かだが、抗いがたい圧がある。
「……ザガン。具合が悪いって言ってくれないかな」
「畏れながら陛下。仮病は魔王の威厳を損ねます」
(威厳なんてない。最初からない。ゼロだ)
「それに——仮病を使われても、『体調不良を押して職務に臨む姿勢』として美談になるだけかと」
(なるのか。なるんだろうな。もう何をしてもそうなるんだ)
諦めて布団から出た。
最初の相談者は、二つの男爵家の水利権争いだった。
長テーブルの上に広げられた地図を前に、両家の当主が激論を交わしている。川の水をどちらの領地に引くかという問題で、もう五年揉めているらしい。
ヴァルゼンは必死で地図を見た。
(地図が読めない。川がどっちに流れてるのかもわからない)
両家の主張を聞き比べる。どちらも「自分の領地の方が水を必要としている」と言っている。
(わからない。本当にわからない。でも何か言わないと——)
「あの……お二人とも、困っているのですね」
言った瞬間、しまったと思った。前回と同じだ。何の具体性もない。
だが——効果は前回と同じだった。
「困っている……そうだ、我々は困っているのだ!」
「ヴァルゼン殿は、我々の苦しみをわかってくださった!」
両家の当主が泣き始めた。
(え。また? また泣くの?)
結果、両家は川の水を時期によって交互に利用する輪番制を自主的に提案し、握手して帰っていった。
二件目。婚姻問題。
男爵家の嫡男と伯爵家の令嬢の縁談が、持参金の額をめぐって暗礁に乗り上げているという。
双方の父親が、延々と金額の妥当性について語る。
(数字が頭に入ってこない。金貨何枚がどうとか、領地の年間収入がどうとか——)
ヴァルゼンの意識が飛びかけた。
はっと戻って、口が勝手に動いた。
「あの……お二人のお子さんたちは、幸せでしょうか」
沈黙。
男爵が目を見開いた。
「……息子の幸せ」
伯爵が唇を噛んだ。
「……娘の幸せ、か」
「我々は金の話ばかりしていた」
「子供たちの気持ちを、聞いていなかった」
二人の父親は顔を見合わせ、同時に「一度子供たちに話を聞こう」と立ち上がった。
(また解決してしまった。何もしていないのに。いや、何もしていないから解決したのか?)
三件目。税率問題。
これは難航した。関係者が七名もいて、全員が別々の主張をしている。
ヴァルゼンの頭は完全にオーバーヒートしていた。七つの意見を同時に処理する能力は持ち合わせていない。
(だめだ。これは無理だ。何を言えばいいのかまったく——)
「……お一人ずつ、お話を聞いても、いいですか」
苦し紛れだった。全員が同時に喋るから何も理解できないので、一人ずつにしてほしかっただけだ。
だが七名の貴族は、一様に目を丸くした。
「お一人ずつ……」
「なるほど。全体ではなく個別の事情を把握された上で、総合判断をなさるおつもりか」
「さすがは——」
(違うんだよ。同時に喋られると頭がパンクするだけなんだよ)
個別に話を聞いた。
聞いたが、やはり理解できなかった。
七人目の話が終わった時、ヴァルゼンの目は完全に据わっていた。疲労で据わっていたのだが、周囲には別のものに見えたらしい。
「……あの。皆さん、それぞれご事情があるのは、わかりました」
もはやこれしか言えない。
「ですから、皆さんで話し合って——皆さんが納得できる形を——見つけていただけると、嬉しいです」
要するに「自分たちで解決してくれ」と言ったのだ。
だが——。
「ヴァルゼン殿は、我々自身で答えを出せと仰っているのだ」
「押し付けではなく、自治を促す——これぞ理想の統治者ではないか」
「なんという器の大きさ……」
七名は改めて議論を始め——ヴァルゼンの前では妙に冷静になるのか——二刻ほどで妥協案にたどり着いた。
すべての相談が終わった頃、日はとっぷりと暮れていた。
ヴァルゼンは宿の食堂の椅子に、溶けるように座り込んだ。
「お疲れ様です、魔王殿」
フェリクスが、手帳を閉じながら近づいてきた。
「今日の件、興味深いデータが取れました。三件の案件、すべてに共通するのは——魔王殿が具体的な指示を一切出していないという点です」
「……それは——」
「普通の仲裁者は、自らの判断を押し付ける。しかし魔王殿は共感だけを示し、解決策の提示は当事者に委ねた。これにより当事者は『押し付けられた結論』ではなく『自ら導いた結論』として受け入れる。不満が残らない。控えめに言って——天才的な手法です」
(何もわからなかったから具体的なことが言えなかっただけなんだが)
エルヴィンがドンとテーブルを叩いた。
「政治的天才だ!」
「い、いや——」
「お前は剣でも魔法でもなく、言葉で——いや言葉すら使わずに——人を動かせるんだ! これが魔王の力か!」
(政治的天才って呼ばないでくれ。頼むから)
ミラベルが温かいお茶を差し出してくれた。
「ヴァルゼン様、お疲れが顔に出ていらっしゃいます。……でも、今日救われた方々のお顔を見ましたか? 皆さん、笑顔でした」
ヴァルゼンは茶を受け取り、一口飲んだ。
温かかった。
(……笑顔、だったのかな)
自分では何もしていないと思う。本当に何もしていない。だが——彼らが笑顔で帰ったのなら、この疲労にも少しだけ意味があったのかもしれない。
そんなことを考えて、すぐに首を振った。
(いやいや。感傷に浸っている場合じゃない。明日もまた行列ができてたらどうするんだ)
翌朝。
宿の前には、前日の三倍の行列ができていた。
「……ザガン」
「はい、陛下」
「逃げたい」
「畏れながら、退路はございません。さすがは陛下——退路を断つことで、ご自身を奮い立たせる戦術ですな」
(違う。本当に逃げたいだけだ)
王都の社交界に、新たな称号が生まれた。
『一言の仲裁者』。
ヴァルゼンは、その称号を聞くたびに胃が痛くなるのだった。




