領地争いの仲裁を頼まれまして
領地争いの仲裁を頼まれまして
晩餐会から三日後。
ヴァルゼンは、王城の一室に呼び出されていた。
(何もしていない。何もしていないのに呼び出される。これはもう死刑宣告のパターンでは?)
案内された部屋は、広い会議室だった。長テーブルの左右に、明らかに不機嫌な顔をした貴族たちが向かい合って座っている。左側に三名、右側に三名。その全員が、ヴァルゼンの登場と同時に背筋を正した。
「お待ちしておりました、ヴァルゼン殿」
上座に立っていた宮廷官が、恭しく頭を下げた。
「本日は、ヴァルゼン殿に仲裁をお願いしたく」
(仲裁? 僕に? なぜ?)
「左がカーラント侯爵家、右がベルモット伯爵家でございます。両家の間で、二十年来の領地境界線を巡る争いがありまして」
(二十年。二十年の争いを僕に仲裁しろと。無理だ。絶対に無理だ)
「先日の晩餐会でのお見事な手腕——ワインの件でございますが——を拝見し、国王陛下より直々に『ヴァルゼン殿ならば公正な裁きを下せるであろう』とのお言葉を賜りまして」
(ワインこぼしの件が仲裁の根拠になるの? おかしくない? 絶対おかしいよね?)
しかし断ることは当然できない。国王直々の依頼だ。断れば不敬罪だ。たぶん。
ヴァルゼンは、上座——長テーブルの端——に座らされた。
左のカーラント侯爵が、分厚い書類の束を叩きつけるようにテーブルに置いた。
「この土地は、三代前の国王陛下より我が家に下賜されたものでございます!」
右のベルモット伯爵が、それに負けじと別の書類を広げた。
「何を申される! 当家の領地台帳には、かの地は明確にベルモット領と記されておる!」
双方が口角泡を飛ばして主張を始めた。
ヴァルゼンは必死で聞いていた。本当に必死だった。だが——。
(わからない。何を言っているのかまったくわからない)
三代前の国王の下賜状。領地台帳の記録。慣習法と成文法の解釈。河川の流路変更による境界線の変遷。封建制度における土地の帰属原則。
一つ一つの単語は聞き取れる。しかし組み合わさった瞬間、意味が蒸発する。
(だめだ。眠い。ものすごく眠い)
昨夜もろくに眠れなかった。晩餐会の悪夢——ワインが永遠にこぼれ続ける夢——に何度も起こされたからだ。
カーラント侯爵の声が、遠い水底から聞こえるように遠ざかっていく。
(だめだ。寝たら殺される。侯爵に。いや伯爵に。いや両方に)
だめだった。
意識が、ふっと——途切れた。
どれくらい経ったのか。
ヴァルゼンは、「はっ」と目を覚ました。
一瞬の居眠りだった。たぶん。おそらく。もしかしたら数分かもしれないが。
目の前では、カーラント侯爵とベルモット伯爵が、まだ口論を続けている。ただし最初より、声のトーンが幾分落ちていた。双方とも、怒鳴り疲れたらしい。
そして、全員がヴァルゼンを見ていた。
裁定を待つ目だった。
(何か言わないと。今すぐ何か言わないと。この沈黙は致命的だ)
ヴァルゼンの口が、半ば自動的に動いた。
「あの……両方の気持ちは、わかります」
それだけだった。
本当にそれだけだった。
何も聞いていなかったから、「両方の気持ちはわかります」以外に言えることがなかった。具体的な内容には一切触れていない。どちらの味方もしていない。ただ——「わかります」と言っただけだ。
沈黙が落ちた。
カーラント侯爵が、目を見開いた。
「……ヴァルゼン殿は、我が家の苦労を理解してくださるのか」
ベルモット伯爵が、唇を震わせた。
「我々の……二十年の訴えを、わかると——」
(え? なんでそんな感動した顔してるの? 僕は何もわかってない)
「ヴァルゼン殿」
カーラント侯爵が立ち上がった。
「二十年間、誰一人として——国王陛下でさえ——我々の『気持ち』をわかると仰ってくださった方はおられなかった」
「さよう」
ベルモット伯爵も立ち上がった。
「領地の帰属ばかりが議論され、我々がなぜこの土地に拘るのか——先祖代々の誇りが、歴史がそこにあるからだということを——誰も聞いてくれなかった」
(聞いてない。僕も聞いてない。寝てたからだ)
二人の貴族は、テーブルを回り込んで——互いに向き合った。
「カーラント殿。……長い争いだったな」
「ベルモット殿。……そうだな」
二人は、握手した。
(えっ?)
「ヴァルゼン殿の仰る通りだ。互いの気持ちがわかるのなら、二十年の溝も埋められよう」
「共同管理ではどうか。あの土地を両家の友好の証とする」
「それがよい。先祖も喜ぶだろう」
(僕は何を仰ったの? 「両方の気持ちはわかります」しか言ってないんだけど?)
カーラント侯爵が振り返り、深々と頭を下げた。
「ヴァルゼン殿。あなたは一言で、二十年の争いを終わらせてくださった」
「ありがとうございます。あなたの知恵に、心より感謝を」
ヴァルゼンは曖昧に頷くことしかできなかった。
部屋を出ると、廊下でフェリクスが待っていた。手帳を開き、何かを猛烈な速度で書き込んでいる。
「さすがですね、魔王殿」
「い、いや、あの——」
「僕は会議室の外から聞いていましたが——双方の主張が法的に均衡している以上、法理では解決不能な案件でした。にもかかわらず、あなたは法ではなく感情に訴えた。しかも特定の内容に触れず、抽象的な共感を示すことで、双方に『自分こそが理解された』と同時に思わせた」
(何もしてない。寝てただけだ)
「これは外交における最高技法——いわゆる『鏡の話法』に該当します。相手の心を映し返すことで、自ら解決に至らしめる。教科書にはありますが、実践できる者を見たのは初めてです」
(聞いたことのない技法の実践者にされてしまった)
エルヴィンが駆け寄ってきた。
「ヴァルゼン! 聞いたぞ! 二十年の争いを一言で解決したんだってな!」
「あ、いや——」
「やっぱりお前はすげえよ! 剣でも魔法でもなく、言葉一つで戦場を制する——これが、魔王の器ってやつだな!」
エルヴィンの碧い目が、太陽のように輝いていた。
(やめてくれ。その眩しい笑顔が一番つらいんだ)
ミラベルが、静かに近づいてきた。
「ヴァルゼン様。……あの方々、お帰りの際にとても晴れやかなお顔をしていらっしゃいました」
「そ、そうですか」
「ヴァルゼン様がお優しいから、争っていたお二人も、争うことが馬鹿らしくなったのだと思います。……あの方々を救ったのは、ヴァルゼン様の言葉ではなく、お心です」
ミラベルの翡翠色の瞳が潤んでいた。
(泣かないでください。本当に何もしてないんです。寝てたんです。寝てたことは絶対に言えないけれど)
宿に戻る道すがら、ザガンが隣に並んだ。
「陛下。……仲裁、お疲れ様でございました」
「あ、ザガン。うん……」
「居眠りから覚めた直後に即座に最適解を出される胆力、常人には真似できません」
ヴァルゼンの足が止まった。
(今、なんて——)
「さすがは陛下。居眠りすらも戦略のうち、ですな」
ザガンの琥珀色の瞳が、穏やかに細められていた。
その尾が——ほんの微かに、愉快そうに揺れた。
(バレてる。この人には完全にバレてる)
だがザガンは、それ以上何も言わなかった。
ヴァルゼンもまた、何も言えなかった。
王都に新たな伝説が一つ、加わった夜だった。




