ワインの一滴が生んだ伝説
ワインの一滴が生んだ伝説
晩餐会は佳境に差しかかっていた。
正確には、ヴァルゼンの胃が佳境に差しかかっていた。
(もう無理だ。これ以上食べたら死ぬ。物理的に死ぬ)
テーブルの上には、七皿目の料理が運ばれてきていた。白身魚の香草蒸し、子羊のロースト、季節の温野菜、そして名前すら聞いたことのない色鮮やかなソース。貴族の晩餐というのは、胃袋の容量を試す競技なのだろうか。
「ヴァルゼン殿、こちらのワインは王都でも最高級の品でございまして」
隣席の貴族——たしかアルヴァント伯爵と名乗った——が、満面の笑みでグラスにワインを注いだ。深い紅色の液体が、燭台の灯りに照らされて宝石のように輝いている。
「あ、あの、もう十分いただきまして——」
「まあまあ、ご遠慮なさらず。このワインは伯爵家の秘蔵でございますから」
(遠慮じゃない。限界なんだ。僕の胃袋は貴族仕様じゃないんだ)
しかし断る勇気はない。相手は伯爵だ。伯爵を怒らせたら、最悪の場合どうなるのか。牢屋か。処刑か。考えるだけで背筋が凍る。
ヴァルゼンは震える手でグラスを持ち上げた。
そして。
起こるべくして、それは起こった。
緊張で強張った指が、グラスの表面で滑った。深紅のワインが、真っ白なテーブルクロスの上に——ぱしゃり、と音を立てて広がった。
(あ)
時間が止まった。
少なくとも、ヴァルゼンの体感ではそうだった。
(終わった。完全に終わった。伯爵家秘蔵のワインを、テーブルに、ぶちまけた)
白いクロスの上で、赤い染みが薔薇のように広がっていく。周囲の貴族たちの視線が、その赤い染みとヴァルゼンの顔を交互に見比べた。
沈黙。
痛いほどの沈黙。
「す、すみま——」
「お見事です、魔王殿」
斜め向かいの席から、フェリクスの声が割り込んだ。
ヴァルゼンは反射的にそちらを見た。フェリクスはモノクルの奥で目を細め、いつもの薄い笑みを浮かべている。
「やはり気づいておられましたか。このワイン——微かにですが、不自然な成分が混じっていました」
(え?)
「な、なんだと!」
アルヴァント伯爵が椅子から腰を浮かせた。
「毒だと言うのか!」
「断言はできません。しかし魔王殿が故意にワインをこぼされたということは、少なくとも魔王殿の感覚がそれを危険と判断されたということです」
(してない。故意じゃない。手が滑っただけだ)
ヴァルゼンの内心の叫びは、しかし誰にも届かない。
広間がざわめき始めた。貴族たちが口々にささやき合う。
「魔王殿が毒を見抜いた?」
「グラスを持った瞬間に気づいたのか」
「恐ろしい……あの方の感覚は人智を超えている」
(違う。手が滑っただけだ。本当に手が滑っただけなんだ)
グリゼルダが即座に立ち上がり、手をテーブルに叩きつけた。
「毒を盛った者は名乗り出ろ。さもなくば、この場の全員を疑うことになる」
場が凍りついた。
(グリゼルダさん、怖い。怖すぎる。全員ビビってるじゃないか)
「待ってくれ、グリゼルダ」
エルヴィンが立ち上がった。しかしその顔には怒りではなく、むしろ感嘆の色が浮かんでいた。
「ヴァルゼン。お前はこうなることも読んでいたんだな」
(読んでない。何も読んでない)
「ワインをこぼすという、一見不作法に見える行為で毒の存在を暴く。しかも犯人を特定せず、場を混乱させることで——真の犯人が焦って動くのを待っている」
(待ってない。ただ固まっているだけだ)
エルヴィンの声は広間に朗々と響いた。
「さすがだ、ヴァルゼン。この場の全員が、お前の掌の上だ」
ヴァルゼンの掌の上にあるのは、ワインで濡れた指だけだった。
しかし、事態は思わぬ方向に動いた。
広間の隅で、一人の給仕が顔色を変えて走り出したのだ。
「逃がすな!」
グリゼルダの一喝で、護衛の騎士たちが出入口を塞いだ。取り押さえられた給仕は、青い顔で震えながら「雇われただけだ」と繰り返した。
(え。本当に毒が入ってたの?)
ヴァルゼンは愕然とした。
後にわかったことだが、給仕はある没落貴族に雇われ、ワインに微量の痺れ薬を混入していたらしい。殺傷目的ではなく、晩餐会で醜態を晒させて政敵の評判を落とすための姑息な手段だった。標的はアルヴァント伯爵で、ヴァルゼンのグラスに入ったのは偶然の産物だった。
だが、そんな事情は誰の耳にも入らなかった。
「魔王ヴァルゼン殿が、一滴の違和感から毒を見抜いた」
この一文が、翌日には王都中に広まっていた。
「いや、あの、その……僕が見抜いたというのは——」
「ご謙遜を。あの場にいた者は全員が目撃しております」
アルヴァント伯爵は感涙にむせびながら、ヴァルゼンの手を両手で握りしめた。
「命の恩人です。アルヴァント家は、今後永久にヴァルゼン殿のお味方でございます」
(味方って。そんな大げさな。本当に手が滑っただけなのに)
宿に戻ったヴァルゼンは、ベッドに倒れ込んで天井を見つめた。
隣室から、フェリクスの声が聞こえた。
「エルヴィン、今夜の件だが。あのワインに毒が入っていることは、間違いなく魔王殿は気づいていた。問題は、なぜグラスを手に取ったかだ」
「それは——毒の存在を確認するためだろう?」
「そうだ。手に取らなければ、こぼすこともできない。こぼさなければ、犯人を炙り出す契機も生まれない。つまり魔王殿は、グラスを手にした時点で——いや、おそらく注がれる前から——この結末を見通していたことになる」
(見通してない。見通してない。断じて見通してない)
ヴァルゼンは枕に顔を埋めた。
ミラベルの小さな声が、廊下から漏れ聞こえた。
「ヴァルゼン様は……ご自分が毒を飲む危険を冒してまで、伯爵を守ろうとなさったんですね。……あの方はいつも、自分の身を顧みず……っ」
嗚咽が混じっていた。
(泣かないでください。本当に何もしてないんです。ワインをこぼしただけなんです)
翌朝。
宿の食堂で朝食を取ろうとしたヴァルゼンは、異様な光景を目にした。
食堂にいた貴族たちが——わざとワインをこぼしていた。
「魔王流ワイン検毒法、と言うそうだ」
ザガンが茶を啜りながら、淡々と告げた。
「晩餐の席でワインを一滴こぼし、その色の変化で毒の有無を判じる。昨夜の魔王殿の所作から編み出された新作法——だそうですよ、陛下」
(そんな作法は存在しない)
「さすがは陛下。一夜にして王都の食事作法を書き換えるとは」
ザガンの尾が、微かに揺れていた。
ヴァルゼンには、それが笑っているのか呆れているのか、判別がつかなかった。
(……もう何も言うまい)
グラス一杯のワインが、王都の常識を一つ塗り替えた夜の話である。




