ナイフとフォークが、六本ずつ並んでいた。
ナイフとフォークが、六本ずつ並んでいた。
ヴァルゼンは自分の席に着いた瞬間、それを見て固まった。皿の右にナイフが六本。左にフォークが六本。グラスが三つ。パンを置く小皿。バターナイフ。スープ用の匙。
(多い。多すぎる。なんで食事にこんな武器庫みたいな配置が必要なんだ。これは食事じゃない。試験だ。しかもどこにも答えが書いてない試験だ)
周囲の貴族たちは、すでに優雅に着席し、談笑を始めていた。誰もナイフとフォークの多さに動揺していない。当然だ。彼らにとってはこれが日常なのだ。
(外側から使うんだったか? 内側からか? どっかで聞いたような気がするけど、確信がない。間違えたら一発で「マナーも知らない田舎者」とバレる。いや、田舎者どころか「マナーも知らない元魔王」だ。もっとひどい)
隣にはエルヴィンが座っていた。向かいにフェリクス。斜め向かいにグリゼルダ。ミラベルはヴァルゼンの左隣。ザガンは一つ離れた席で、視界の端から主君を見守っている。
最初の料理が運ばれてきた。前菜だった。小さな皿に、芸術的に盛り付けられた何かが載っている。何の食材なのかすらわからない。
(これは何だ。草か? 花か? 食べ物なのか飾りなのかすら判断できない。周りを見ろ。周りがどうするか見てから動け)
横目で隣のテーブルの貴婦人を観察した。彼女は一番外側のフォークとナイフを取り、前菜を上品に切り分けている。
(外側からか。よし。外側から——)
フォークを手に取った。ナイフを手に取った。前菜に刃を当てた。
滑った。
小さな前菜は皿の上をつるりと逃げ、ヴァルゼンのナイフをすり抜けた。追いかけてフォークを突き立てると、今度は前菜が跳ねた。
(待て。待ってくれ。なんでこんなに滑るんだ。ソースか? ソースのせいか? こんな小さいものを上品に切り分けるなんて、曲芸じゃないか)
三度目の挑戦で、前菜はついに皿の外に飛び出しかけた。
ヴァルゼンは——反射的に、素手でそれを掴んだ。
掴んでから、気づいた。
(やった。やってしまった。貴族の晩餐会で、手づかみだ。手づかみで前菜を食べようとしている。しかも今、確実に十人以上がこっちを見ている)
時間が止まったような気がした。
向かいのフェリクスの目が、わずかに見開かれている。グリゼルダの手がナイフの柄にかかっている——いや、それはただの癖だ。ミラベルが小さく息を呑んだ。
そしてエルヴィンが——立ち上がった。
「なるほど! これが魔王流の食事作法か!」
その声は、大広間に響き渡った。
(エルヴィン、頼むから黙ってくれ)
「食事とは本来、手で味わうもの——道具を介さず、食材と直接向き合う。それが食への最大の敬意だと、ヴァルゼンは教えてくれているのだ!」
(教えてない。ナイフが使えなかっただけだ)
だがエルヴィンの言葉は、場の空気を一変させた。
最初に動いたのは、テーブルの上座に座っていた壮年の公爵だった。彼はじっとヴァルゼンを見つめ——おもむろに自分の前菜を手で取り上げ、口に運んだ。
「……なるほど。確かに、道具を通すと失われる繊細な食感がある」
向かいの侯爵夫人が目を丸くし——そして、おずおずと前菜を指で摘まんだ。
「まあ……本当。指先で感じる温度が、食の一部なのですわね」
波紋が広がった。
一人、また一人と、貴族たちがフォークを置き、手で前菜を食べ始めた。最初は戸惑いながら。やがて、どこか楽しそうに。
(嘘だろ。嘘だと言ってくれ。なんで貴族が手づかみで食べ始めてるんだ。止めてくれ。僕のせいで高貴な方々がマナーを放棄している)
フェリクスが、信じられないものを見る目で広間を見渡し——手帳を取り出した。
「……驚くべきことです。魔王殿は、たった一つの動作で——この場の全員の常識を書き換えた」
(書き換えてない。壊しただけだ)
「既存のマナーに従うのではなく、新たなマナーを創造する。これが王者たる所以です」
(王者じゃない。ナイフが使えなかっただけだ。何度でも言う)
だが事態は、ヴァルゼンの制御を完全に離れていた。
メインディッシュが運ばれてきた頃には、テーブルの半数近くが「魔王流」を試していた。手づかみで肉を食べ、パンをちぎり、指についたソースを舐める貴族たち。その光景は、ヴァルゼンの目には地獄絵図に映った。
(僕は何をしてしまったんだ。何百年と受け継がれてきた貴族の食事マナーを、一瞬で崩壊させた。これは文化的犯罪だ)
ミラベルが、ヴァルゼンの皿にさりげなくパンを置いた。
「ヴァルゼン様。パンは手でちぎるのが正式な作法ですから、ご安心ください」
(それは知ってる。パンは手でいい。でもありがとうミラベル。今、君だけが僕の味方だ。……いや、エルヴィンも味方のつもりなんだろうけど、味方のベクトルが致命的に間違っている)
晩餐会の後半、隣の席の伯爵が話しかけてきた。五十代の恰幅のいい男で、領地経営で名を馳せた人物らしい。
「ヴァルゼン殿。先ほどのお振る舞い、感銘を受けました」
「は、はあ……恐れ入ります」
(感銘を受けないでください)
「形式に縛られない、とはまさにこのこと。我々貴族はマナーという形式の奴隷になっていた。あなたは我々に気づかせてくださった——食事とは、楽しむものだと」
「い、いえ、そんなつもりでは……」
「ご謙遜を。明日からわが領地の晩餐でも取り入れさせていただきます」
(やめてくれ。領地規模で広めないでくれ)
反対側の席からは、若い女性貴族が身を乗り出してきた。
「ヴァルゼン様。あの所作、もしや魔族の伝統的な食事作法なのでしょうか?」
「え、いえ、魔族は——」
「魔族の文化と人間の文化の融合……! まさに、大戦後の新時代にふさわしい象徴ですわ……!」
(象徴。手づかみが。大戦後の新時代の象徴。もう何が何だか)
晩餐会が終わったのは、深夜近くだった。
控えの間に戻ったヴァルゼンは、真っ先にローブに着替え、ベッドに倒れ込んだ。
(疲れた。人生で一番疲れた。戦闘の方がまだましだ。魔物は手づかみで食べても何も言わない)
だが本当の恐怖は、翌朝にやってきた。
ザガンが朝食とともに、市井の噂を報告してきたのだ。
「陛下。昨夜の晩餐会でのお振る舞いが、すでに王都中で話題になっております」
「……何が」
「『魔王食い』——手で直接食材に触れるという新たな食事作法が、貴族の間で急速に広まりつつあるとのことです」
「……魔王食い」
「はい。今朝の時点で、少なくとも十二の貴族家が朝食に取り入れたとの報告があります。午後にはさらに増えるでしょう」
ヴァルゼンは枕に顔を埋めた。
(魔王食い。僕がナイフを使えなかっただけのことが、文化現象になっている。名前までついている。しかも「魔王食い」。語呂が良すぎる。広まるに決まっている)
エルヴィンが扉を開けて顔を出した。満面の笑みだった。
「ヴァルゼン! 聞いたぞ、『魔王食い』! お前はすごいな! 食事の仕方一つで王都の文化を変えるとは!」
「……変えたくなかったんだけど」
「ははは! その謙虚さも、お前らしい!」
(謙虚じゃない。本心だ。どうか信じてほしい。本心だ)
しかし誰も信じなかった。
誰も、信じてはくれなかった。




