ドレスコードという言葉を、ヴァルゼンは生まれて初めて聞いた。
ドレスコードという言葉を、ヴァルゼンは生まれて初めて聞いた。
「晩餐会?」
「はい。王族主催の正式な晩餐会です。明後日の夜。招待状が届いております」
ザガンが恭しく書状を差し出した。金縁の封筒に王家の蝋印。開封すると、美しい筆跡で「ヴァルゼン殿ならびにご一行の臨席を賜りたく」と記されていた。
(晩餐会。貴族の。王族主催の。……つまり、偉い人たちが集まって豪華な食事をする、あの晩餐会か。映画とかで見るやつ。いやこの世界に映画はないけど。とにかくあの、ナイフとフォークが十本くらい並んでるやつだ)
「素晴らしい! 国王陛下から直々の招待とは、ヴァルゼンの評価がいかに高いかがわかるな!」
エルヴィンが拳を握って喜ぶ。
(喜んでる場合じゃない。僕はナイフとフォークの使い方すら怪しい。魔王軍時代の食事は手づかみか木のスプーンだった。貴族の食事マナーなんて、一ミリも知らない)
「あの……ドレスコードって、何ですか」
正直に聞いた。知らないものは知らない。聞けるうちに聞いておかなければ、本番で恥をかく。いや、聞いても恥をかくかもしれないが、聞かずに恥をかくよりはましだ。
パーティの面々が一瞬、沈黙した。
フェリクスが最初に口を開いた。
「……なるほど。魔王殿は、人間の社交界の慣習にあえて無知を装うことで、我々に準備の主導権を委ねるおつもりですか。巧妙ですね」
(装ってない。本当に知らない)
「ドレスコードとは、その場にふさわしい服装の規定のことです」
ミラベルが丁寧に説明してくれた。
「王族主催の晩餐会ですから、正装が求められます。男性であれば仕立てのよい上着に、磨かれた靴、装飾品——」
(正装。上着。靴。装飾品。全部持ってない。僕の服は魔王時代のローブを繕ったやつ一着だ)
「ご心配なく、陛下。すべて私がご用意いたします」
ザガンがそう言って、翌日には仕立て屋を手配していた。
いつの間に。どこから。どうやって。
ヴァルゼンはザガンの手際に疑問を挟む暇もなく、採寸され、生地を選ばれ、装飾品を見繕われた。
そして晩餐会の前日。仕上がった衣装が届いた。
黒を基調とした上着に、深い紫の裏地。襟元に銀糸の刺繍。ブーツは黒革で、控えめだが上質な光沢がある。全体的に派手さはなく、しかし一目で「仕立てのよさ」がわかる品だった。
「さすがザガン。完璧だ」
エルヴィンが感嘆した。
「陛下のお召し物として、過度な装飾は不要と判断しました。魔王たるもの、衣装で語るのではなく、存在そのもので語るべきです」
(そんな格好いい理由じゃなくて、単に派手な服は僕に似合わないからでしょう)
ヴァルゼンは衣装に袖を通した。
鏡を見た。
(……誰だ、これ)
鏡の中にいたのは、見慣れない青年だった。灰銀の髪はザガンが丁寧に整え、淡い紫の瞳は黒い上着に映えて思ったよりも鮮やかだった。額の小さな角は前髪に隠れ、人間と見分けがつかない。
(悪くない……のか? いや、服がいいだけだ。中身は変わっていない。中身は相変わらず、ゴブリン以下の戦闘力しかない最弱の魔王だ)
「おお……!」
ミラベルが両手を口に当てた。
「ヴァルゼン様、とてもお似合いです……!」
「そうだな。さすが魔王、何を着ても風格が違う」
エルヴィンが腕を組んで頷く。
(何を着ても風格って何だ。裸でも風格があるのか)
グリゼルダが鋭い目で上下を観察した。
「ヴァルゼン様。動きやすさはいかがですか。万が一の場合、すぐに戦闘態勢に——」
「グリゼルダ。晩餐会で戦闘はしない」
フェリクスが冷静に止めた。
「……しかし、備えは必要だ」
「備えは僕がする。君は食事を楽しめ」
ヴァルゼンは鏡の前で身体を捻った。上着が肩に少し窮屈だった。いつものローブの自由さがない。腕を上げると脇が突っ張る。
「あの、ザガン。少し窮屈で……」
「恐れ入ります、陛下。正装とはそういうものでございます。ただし、お辛いようでしたら——」
「いえ、大丈夫です。我慢します」
(我慢できるかは別として、ここで文句を言うとザガンに申し訳ない。せっかく用意してくれたんだから)
晩餐会の当日。
控えの間で最終確認をしていると、エルヴィンが正装姿で現れた。白を基調とした勇者の礼服は、彼の金髪碧眼と完璧に調和して、まるで英雄譚の口絵から抜け出したようだった。グリゼルダは銀灰色のドレスに仕立て直された甲冑の一部を組み合わせた独特の装い。フェリクスは紺色のフロックコート。ミラベルは白いドレスに金の飾り紐。
全員が、それぞれに様になっていた。
(みんな似合ってるなあ。特にエルヴィン。あれは反則だろう。勇者が正装したら、そりゃ絵になるに決まってる。僕はといえば——いい服を着た小柄な地味男だ。並んだら引き立て役にしかならない)
しかしヴァルゼンは知らなかった。
彼の「窮屈そうにしている」姿が、周囲にどう映っているかを。
ザガンが用意した衣装は、魔王の威厳を最大限に引き出すよう計算されていた。だがヴァルゼンは窮屈さから自然と動きが小さくなり、所作が控えめになり——結果として、「必要以上に飾らない」「華美を避ける」という印象を完璧に演出していた。
エルヴィンが眩しい正装で注目を集める隣に立つヴァルゼンは、豪奢な宝石の横に置かれた一輪の野花のようだった。
それを見た護衛兵の一人が、仲間にこう囁いた。
「見ろ。勇者殿は正装で威厳を示すが、魔王殿は正装すらも超越している。あえて質素に振る舞うことで、己の器を見せつけているのだ」
別の兵士が深く頷いた。
「あの方の真価は衣装にはない。存在そのものが格を語っている」
(頼むから聞こえる声で言わないでくれ)
ヴァルゼンの耳に届いたその会話は、胃を確実に一回り縮ませた。
晩餐会の会場は、城の大広間だった。控えの間から大広間へと続く廊下を歩きながら、ヴァルゼンは自分の心臓の音を聞いていた。
どくん、どくん、どくん。
(まだ会場に入ってすらいないのに、もう帰りたい。帰りたい帰りたい帰りたい。でも帰れない。帰ったら「魔王が晩餐会を拒否した」と大騒ぎになる。行くしかない。行って、食べて、黙って、帰る。それだけだ。それだけ——できるはず)
大広間の扉が、音もなく開いた。
百を超える燭台の光。長いテーブルに並ぶ銀食器。色とりどりのドレスと礼服。そして——一斉にこちらを向いた、何十もの貴族たちの目。
「ヴァルゼン殿のご到着でございます」
場内アナウンスが響いた瞬間、ざわめきが波のように広がった。
(終わった。もう終わった。この瞬間から、僕の社会的な死へのカウントダウンが始まった)
ヴァルゼンは、とりあえず——笑顔を作ろうとして失敗し、引きつった顔のまま、大広間に足を踏み入れた。




