国王は、思ったよりも普通の人だった。
国王は、思ったよりも普通の人だった。
宰相との会談から二日後。ヴァルゼンのもとに、今度は国王からの私的な招待が届いた。「茶会」と書かれていた。
(茶会。国王の。私的な。……これは罠か? いや、国王が罠を仕掛ける必要はない。国王だ。命令一つで僕を牢にぶち込める人だ。わざわざお茶に呼んで毒を盛るような面倒なことはしないだろう。……しないよな?)
不安を抱えたまま、案内された先は王宮の奥まった小部屋だった。豪華だが、玉座の間に比べれば格段に落ち着いた空間だ。窓際のテーブルに焼き菓子と茶器が並んでいる。
国王アルフレード三世は、すでに席についていた。
「おお、来てくれたか。まあ座れ、堅苦しいのは抜きだ」
五十代半ばの、がっしりした体格の男だった。謁見の間で見た時は玉座と王冠の威圧感に目がくらんだが、今日は王冠もなく、上着も簡素なものだった。顔の皺は深いが、目元には穏やかな光がある。
「は、はい。失礼します……」
ヴァルゼンは椅子に座った。背筋が勝手にぴんと伸びる。緊張で。
(国王と二人きり。護衛はいるだろうけど、この部屋には僕と国王だけだ。何を話せばいいんだ。天気の話か? 「今日はいい天気ですね」? 国王に天気の話をするのか? いや他に何がある。税制の話なんてできない。昨日の夕食の話も微妙だ)
「そんなに緊張するな。儂とて一人の人間だ」
国王が茶を注ぎながら言った。自分で。給仕を通さず、自分の手で。
「この部屋では王でも臣下でもない。ただの茶飲み話だ。——菓子を食え。城の菓子職人の自信作だそうだ」
焼き菓子が目の前に置かれた。
一口食べた。
(……美味い。すごく美味い。外はさくさくで中はしっとりで、バターの香りが——いや、今それどころじゃない。国王の前だ。もっと上品に——)
だが手は止まらなかった。二つ目、三つ目と手が伸びる。宰相との会談で削られた精神力が、甘味を求めていた。気づけば皿の半分が空になっていた。
(しまった。食べすぎた。国王の前で菓子を貪るとか、最悪だ)
慌てて口元を拭い、顔を上げると——国王が笑っていた。
「はは。気に入ったか。遠慮なく食え、まだある」
「す、すみません。あの、つい……」
「いいことだ。素直な男は好きだぞ」
国王が自分の茶を啜り、窓の外に目を向けた。
「ヴァルゼンよ。儂は昨日、宰相から報告を受けた」
(来た。宰相の報告。あの会談で僕が何も答えられなかったことが、国王の耳に入ったのか。「使えない男だ」と——)
「お前が宰相を手玉に取ったそうだな」
(手玉。手玉に取った。僕が。あの宰相を。嘘だろう)
「あのルドヴィークが『読めない』と言うのは、初めてだ。あの男は六十年の政治人生で、一度たりとも相手を『読めない』と評したことがない」
(読めないんじゃなくて、読むものがなかったんです、国王陛下)
「大したものだ。儂も謁見の場では見抜けなかった。だが宰相の反応を見て確信した——お前、とんでもない男だな」
(とんでもないのは、この誤解の連鎖のほうだ)
しかしヴァルゼンは、国王の目を見て——少しだけ、力が抜けた。
この人は、宰相のように腹を探ってこない。駆け引きをしようとしていない。本当にただ、お茶を飲みながら話をしたいだけなのだ。
その素朴な善意が、ヴァルゼンの警戒をわずかに解いた。
「……国王陛下は、怖くないんですか」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
「怖い? 何がだ」
「僕は——元魔王です。人間にとっては、敵だったはずの存在です。それなのに、こうしてお茶に招いてくださるのは……」
国王は数秒、ヴァルゼンの顔をじっと見た。
「怖くはないな」
「……どうしてですか」
「菓子を美味そうに食う奴に、悪い奴はおらん」
ヴァルゼンは目を瞬かせた。
国王は茶を置いて、少し真面目な顔になった。
「——というのは半分冗談だがな。お前の目を見ればわかる。飾らん目だ。権力を欲しがる目でもない。部下を道具と見る目でもない。お前は、目の前の人間を——ちゃんと見ている」
(見てるんじゃなくて、怖くて目が離せないだけなんですが)
「儂は四十年王をやっている。その間、数えきれないほどの貴族や将軍や外交官と対面してきた。みな一様に、儂の中に『利用できるもの』を探す目をしていた。お前は違う」
「あの、それは……」
「無欲に見えて、人の心を掴む。大した男だ」
国王がもう一度笑い、新しい菓子の皿を手ずから置いた。
(また菓子。いや嬉しいけど。嬉しいけど、今の流れは完全に「菓子に夢中になっていた→国王に感心された」だ。恥ずかしさで死にたい)
茶会はその後、穏やかに続いた。国王は大戦の頃の話をし、若い頃の失敗談を笑って語り、ヴァルゼンに「また来い」と言った。
部屋を出る時、ヴァルゼンの足取りは行きよりも軽かった。
(国王陛下は、いい人だ。怖くない。威張らない。菓子をくれる。……菓子をくれるから好きというのは、犬みたいで情けないけど)
控えの間に戻ると、エルヴィンが待ちかねたように尋ねた。
「どうだった! 国王陛下との茶会は!」
「あ、うん。その……楽しかったです。菓子が美味しくて……」
エルヴィンが破顔した。
「やはりな! ヴァルゼンが本気を出せば、国王すらも魅了する。お前の人徳は底知れんな!」
「人徳とかじゃなくて、菓子が——」
「聞いたかフェリクス! 国王陛下がヴァルゼンに心を開いたぞ!」
フェリクスがモノクルを光らせた。
「想定の範囲内ですよ。権力者との一対一の対話において、魔王殿ほど相手を無防備にさせる人物はいない。あの方は——対峙した相手の警戒心を無意識に解除してしまう。これは能力と呼ぶべきものです」
(能力じゃない。菓子を食べすぎただけだ)
ザガンが静かに頷いた。
「陛下。国王との個人的な信頼関係を、謁見からわずか数日で構築されましたか。……先代魔王でさえ、他国の王と個人的な関係を結ぶのに数年を要しました」
(先代と比べないでくれ。次元が違う。比較対象がおかしい)
ミラベルが嬉しそうに微笑んだ。
「ヴァルゼン様が楽しそうで、私も嬉しいです。……あの方が心から笑えるのは、きっととても珍しいことだから」
(珍しくない。美味しいものを食べれば誰でも笑う)
だが——正直に言えば、ヴァルゼンは少しだけ嬉しかった。
国王という、この国で最も偉い人が、飾らずにお茶をくれた。菓子をくれた。「また来い」と言ってくれた。
それは、魔王軍にいた頃には一度もなかったことだった。
(……でも、嬉しいと感じた瞬間、すぐに怖くなる。国王陛下は「最凶の魔王」と話していると思っている。本当の僕を知ったら、あの穏やかな笑顔はどうなるのだろう)
その不安は、菓子の甘さでは消えなかった。




