宰相という生き物は、笑顔のまま人の腹を探る。
宰相という生き物は、笑顔のまま人の腹を探る。
翌朝。控えの間で朝食をとっていたヴァルゼンのもとに、一通の書状が届いた。差出人は王国宰相ルドヴィーク・フォン・ヘルダーリン。「ぜひお話を伺いたい」という丁重な招待だった。
「宰相殿が直々に……。これは大変な名誉だ、ヴァルゼン」
エルヴィンが嬉しそうに言う。
(名誉じゃない。これは尋問だ。政治家が「お話を伺いたい」と言うとき、それは「正体を暴いてやる」の丁寧語だ。……いや、僕にそんな知識はないんだけど、なんとなくそんな気がする。本能が「逃げろ」と叫んでいる)
しかし逃げ場はなかった。
案内された部屋は、宰相の執務室だった。壁一面の書架。大きな窓から差し込む光。中央に置かれた重厚な執務机の向こう側に、一人の老人が座っていた。
ルドヴィーク宰相。七十に近い年齢でありながら、背筋は若木のようにまっすぐだった。白い顎髭を整え、灰色の目は穏やかに微笑んでいる。だがその穏やかさの奥に、何かを測る精密な目盛りのようなものがあった。
「ようこそ、ヴァルゼン殿。お忙しいところ、お時間を頂戴し恐縮です」
「い、いえ、こちらこそ……お招きいただきありがとうございます」
(何を話せばいいんだ。政治の話なんてわからない。経済もわからない。外交もわからない。僕にわかるのは「今日の朝食のパンが美味しかった」ということくらいだ)
宰相はお茶を勧め、世間話から入った。旅の疲れはないか。王都の印象はどうか。食事は口に合ったか。
ヴァルゼンは正直に答えた。
「は、はい。パンが、とても美味しかったです」
「それは何より」
宰相が微笑む。そして、何の前触れもなく切り込んできた。
「ヴァルゼン殿。大戦後の魔族領の復興について、どのようなお考えをお持ちですか」
(え。は。魔族領の復興? 考え? 考えなんてない。僕は魔王時代、自分の部屋から食堂までの道すら把握していなかった男だ。領土の復興計画なんて一度も考えたことがない)
「あ、あの、その……」
言葉が出ない。宰相の灰色の目が、静かにヴァルゼンを見つめている。
「……難しい問題ですね」
苦し紛れに出た一言だった。わからないことを「難しい」と表現する、子供のような回避だった。
だが宰相の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「おっしゃるとおりです。単純な領土回復では解決しない。人間と魔族の共存という前提を置かなければ、同じ悲劇が繰り返される——そういうお考えですな」
(そんなことは言ってない。「難しい」としか言ってない)
「で、では、現在の国境問題については」
「……一概には言えないかと」
(言えない。何も知らないから文字通り言えない)
「なるほど。国境線だけを議論しても意味がない。交易路の再建、文化交流、相互理解——包括的な枠組みが必要だと。さすがですな。元魔王としての視点は、我々人間側にはない深みがある」
(深みなんてない。浅瀬で溺れている)
宰相の質問は容赦なく続いた。税制。軍備。食糧政策。貿易協定。一つ一つが専門的で、一つ一つがヴァルゼンの理解を遥かに超えていた。
ヴァルゼンにできたのは、「難しいですね」「一概には言えません」「状況によるかと」という曖昧な返答を繰り返すことだけだった。
しかし——それが逆に効いた。
宰相ルドヴィークは、六十年の政治人生で無数の外交官と渡り合ってきた。明確な主張をぶつけてくる者。駆け引きで揺さぶってくる者。沈黙で圧をかけてくる者。すべて経験済みだった。
だが、ヴァルゼンのような相手は初めてだった。
どの質問にも核心を避け、断定を一切しない。にもかかわらず、その曖昧な返答は——解釈の余地を完璧に残していた。
(この男、私に手の内を一枚も見せていない)
宰相はそう分析した。
(どの質問にも「決めつけない」回答を返してくる。これは無知ではない。高度な外交術だ。あえて明言しないことで、こちらの出方を見ている。こちらが先に本音を出すのを待っている)
実際のヴァルゼンは、本音も何も、ただわからなかっただけである。
「……ヴァルゼン殿」
宰相が姿勢を正した。
「率直に申し上げます。あなたは、私がこれまで会った誰よりも——読めない」
「は、はあ……」
(読めないんじゃなくて、読むものがないんです。白紙なんです)
「だからこそ、信頼に値すると判断しました」
「……え?」
宰相が立ち上がり、窓際に歩いた。
「安易に約束しない。軽々に断言しない。相手の言葉を受け止め、自らは決して手札を切らない——それは、真に長期的な視座を持つ者にしかできないことです」
(長期的な視座。僕は十分先のことも考えていない。今この瞬間をどう生き延びるかで精一杯だ)
「今後も、お知恵を拝借することがあるかもしれません。その折には——」
「あ、はい。その、できる範囲で……」
「『できる範囲で』。はは、最後まで確約はなさらない。大したお方だ」
宰相は笑った。楽しそうに、心底愉快そうに。
執務室を出たヴァルゼンは、廊下の壁にもたれかかった。
(何が起きたんだ。何も答えられなかったのに、なぜか「大したお方」と言われた。質問攻めに遭って「わかりません」を言い換え続けただけなのに、「高度な外交術」扱いされた)
控えの間に戻ると、フェリクスが待ち構えていた。
「魔王殿。宰相との会談はいかがでしたか」
「……疲れました」
「ほう。あの老獪な宰相を相手に、一歩も引かなかったと」
「引くも何も——」
「さすがですね。宰相殿ほどの人物を相手に情報を一切渡さず、逆に相手の出方だけを観察する。まさに外交の教科書です」
(外交の教科書なんて読んだことない)
フェリクスの手帳に、新たな一行が書き加えられた。
『第87日目——宰相との会談において、王国最高の知謀を持つ老練な政治家に対し、完璧な情報統制を敷いた。質問攻めに対して一切の情報を渡さず、かつ相手に不快感を与えない超高度な外交技術。もはや戦場だけでなく、政治の領域でも魔王殿の右に出る者はいないと確信する。』
ヴァルゼンがその内容を知ることは、もちろんなかった。
知らなくて本当によかった。知っていたら、胃に穴が開いていただろう。




