王城で迷子になった。
王城で迷子になった。
謁見が終わった直後のことだった。国王の玉座の間を辞して、エルヴィンたちと合流するはずだったのだが——廊下を一つ曲がった時点で、ヴァルゼンは完全に現在地を見失った。
(右だったか。左だったか。いやそもそも、さっきの階段は上りだったか下りだったか)
王城の廊下は、どこを見ても同じだった。白い大理石の壁。等間隔に並ぶ燭台。天井近くに飾られた歴代国王の肖像画。窓から差し込む午後の光まで、すべてが均一に美しく、すべてが均一に手がかりにならない。
「……どっちだ」
独り言が大理石に反響して、妙に大きく聞こえた。ヴァルゼンは慌てて口を閉じる。
(まずい。これは本格的にまずい。謁見を終えて『では後ほど』と言ってからもう——どのくらい経った? 十分? 二十分? みんな待ってるんじゃないのか)
焦りが足を動かした。右の廊下を選び、早足で進む。突き当たりに扉。開けると——中庭だった。噴水と薔薇の植え込みが広がり、貴婦人らしき二人組がベンチでお茶を飲んでいる。
(違う。ここじゃない。戻ろう)
踵を返す。来た道を戻り、今度は左の廊下へ。長い直線の先に階段。降りると——先ほどと寸分違わぬ廊下が現れた。
(同じところに戻った? いや、肖像画の顔が違う。……違うのか? 髭の形が微妙に——いやわからない。王族の肖像画なんて全員同じ顔に見える)
ヴァルゼンの方向感覚は、魔王軍時代から壊滅的だった。魔王城でも自分の部屋からトイレまでの道を間違え、ザガンに呆れられた前科がある。あの城は三年住んだ。この城は初めてだ。迷わないほうがおかしい。
(……でも、普通の人は迷わないんだろうな。エルヴィンなら「こっちだ!」と直感で正解を引くし、グリゼルダは建物の構造を一瞬で把握する。フェリクスは見取り図を記憶している。ミラベルは——ミラベルも迷うかもしれないけど、可愛いから許される。僕が迷うと情けないだけだ)
焦燥が汗に変わり始めた頃、廊下の先から甲冑の音が近づいてきた。
護衛兵だった。王城の精鋭。銀色の全身甲冑に、国王の紋章が刻まれた肩当てを着けている。その兵士がヴァルゼンの姿を認めた瞬間、足を止めた。
「あっ——あなたは、先ほど国王陛下に謁見された……!」
「あ、はい。その……すみません、道に迷ってしまって——」
正直に言った。これ以上格好をつける余裕はなかった。道に迷ったのだ。助けてほしい。それだけだ。
ところが。
護衛兵の目が、信じられないほど大きく見開かれた。
「まさか——巡回をしてくださっていたのですか!」
「は?」
「謁見を終えられた直後に、城の警備状況をご自身の目で確認されている……! 我々の任務を、信頼するだけでなく、自ら足を運んで——」
「いえ、そうじゃなくて、本当にただ迷——」
「なんという方だ……!」
護衛兵が背筋を正した。目には感動の光が宿っている。
「お恥ずかしい限りです。我々が万全の警護を敷いているとお伝えしておきながら、あなたご自身が巡回されるとは。これは我々の警備に不備があると判断されたということでしょうか」
「いえ、全然——」
「ご安心ください! 直ちに警備態勢を見直します! このことは隊長にも報告いたします!」
(聞いてくれ。僕は。道に。迷っただけだ)
だが護衛兵の感動はもはや止まらなかった。彼は直立不動の姿勢で敬礼し、「こちらです」とヴァルゼンを先導し始めた。その背中は誇りに満ちている。国王に謁見した英雄が、わざわざ城内の警備を自分の目で確かめてくださった——そう信じて疑わない背中だった。
(なんでこうなるんだ。なんで「迷子です」が「巡回です」に変換されるんだ。この城の空気がおかしいのか、それとも世界がおかしいのか)
先導される途中、別の護衛兵とすれ違った。最初の兵士が小声で何かを伝える。すれ違った兵士の目が輝く。敬礼。また別の兵士とすれ違う。伝言。敬礼。
わずか数分で、ヴァルゼンが「城内巡回」を行っているという情報は、護衛兵の間に電撃的に広まった。
「ヴァルゼン殿。こちらが東翼の守護区画です。ご覧のとおり、交代制で——」
「あ、はい……」
「こちらが厨房への連絡通路です。万が一の毒物混入に備え、三重の検査態勢を——」
「は、はあ……」
(案内されている。本格的に案内されている。もう引き返せないところまで来てしまった)
護衛兵は熱心だった。城の警備体制を、事細かに、誇らしげに説明してくれた。ヴァルゼンは相槌を打つことしかできなかった。
やがて、長い回り道の末に、パーティの待つ控えの間に辿り着いた。
扉を開けた瞬間、エルヴィンの声が飛んできた。
「おう、ヴァルゼン! 遅かったな。何をしていた?」
「……道に——」
「ヴァルゼン殿は城内の警備態勢を巡回されておりました!」
護衛兵が、ヴァルゼンより先に答えた。胸を張って。
エルヴィンの目が光った。
「やはりな。お前はいつもそうだ。仲間が休んでいるときに、一人で周囲の安全を確認している。……見習わなければならないな、俺たちも」
フェリクスがモノクルを押し上げた。
「興味深いですね、魔王殿。謁見直後に城の構造を把握しておこうという判断——万が一の脱出経路を想定しての行動でしょうか」
(脱出経路なんて考えてない。来た道がわからなくなっただけだ)
グリゼルダが腕を組んだ。
「ヴァルゼン様。城内で何か不審な点はございましたか」
「い、いえ、特には……」
「特にない、と。つまり現時点での警備は及第点ということですな」
ザガンが静かに頷いた。その目は「さすが陛下」と語っていた。
ミラベルだけが、少し違った。
「ヴァルゼン様、お疲れではありませんか? お水をどうぞ」
差し出された水を受け取りながら、ヴァルゼンはぼんやりと思った。
(……ミラベルは優しいなあ。巡回がどうとか分析がどうとか言わずに、ただ水をくれる。でもきっと彼女は彼女で、何か壮大な誤解をしているんだろうな)
その通りだった。ミラベルは微笑みの裏で、こう考えていた。
(仲間のために、疲れも見せずに城を歩き回って……。あの方はいつも、自分のことは後回しにされるのですね)
ヴァルゼンは水を飲み干し、椅子に座った。
王城での初日。謁見を乗り越え、迷子を乗り越え——いや、迷子は乗り越えていない。物理的に護衛兵に案内してもらっただけだ。
だが、この城で起きた出来事は、すでに兵士たちの間で語り継がれ始めている。
国王に謁見した直後、自ら城内の警備を確認して回った男。それが「最凶の魔王」ヴァルゼンの王城での第一歩だった。
(……帰りたい)
切実な本音は、控えの間の天井に吸い込まれて消えた。




