最凶の魔王、国王に謁見する
最凶の魔王、国王に謁見する
謁見の間は、ヴァルゼンが想像していたよりも遥かに広かった。
天井は見上げれば首が痛くなるほど高く、左右には石柱が整然と並んでいる。柱の一本一本に精緻な彫刻が施され、そこに嵌め込まれた魔石が淡い光を放っていた。床は磨き抜かれた大理石で、自分の顔が映るほどだ。
(映ってる。自分の顔が映ってる。……情けない顔だ)
赤い絨毯が、入り口から玉座まで一直線に伸びていた。その両側に、文官、武官、近衛騎士が居並んでいる。全員がヴァルゼンを見ていた。視線の数は宿場の群衆の比ではない。一つ一つの視線が、鋭く、重く、品定めするように刺さってくる。
(怖い。怖い怖い怖い。宿場の人たちの方がまだ温かかった。ここの視線は——値踏みだ。僕の価値を計っている)
ヴァルゼンの脚が、震えていた。
一歩踏み出すたびに、膝が笑う。大理石の床が滑りそうで怖い。転んだら終わりだ。国王の前で転倒する魔王。歴史に残る恥辱だ。
(転ぶな。転ぶな。右足、左足、右足、左足——)
震える脚で、なんとか絨毯の上を歩く。エルヴィンが左に、グリゼルダが右に、半歩後ろにザガン。フェリクスとミラベルがさらに後方に控えている。
謁見の間に詰めかけた文官たちが、ひそひそと囁き合っていた。
「あれが——最凶の魔王」
「思ったより小柄だな」
「馬鹿を言うな。あの静かな歩み方を見ろ。一歩一歩に無駄がない」
(無駄がないんじゃなくて、転ばないように必死に集中してるだけだ)
「しかも——微動だにしていないぞ。この謁見の間の威圧を、完全に受け流している」
(受け流してない。飲み込まれそうなのを必死に堪えてるだけだ)
玉座が近づいてきた。
そこに座っていたのは、白髪の壮年の男だった。
王冠を戴き、金糸の刺繍が施された紫紺のマントを纏っている。顔立ちは穏やかだが、目だけが鋭い。統治者の目だ。何十年もこの国を導いてきた者の、重みのある眼差し。
国王アルフレード三世。
その視線が、真っ直ぐにヴァルゼンを捉えた。
(目が合った。国王と目が合った。逸らすな。逸らしたら失礼だ。でも怖い。怖い怖い怖い——)
玉座の前で立ち止まった。
ザガンが事前に教えてくれた作法の通り、片膝をつこうとした。
膝が——ガクンと折れた。
片膝をつくつもりが、両膝をついてしまった。脚の震えが止まらなかったのだ。
(やった。やってしまった。両膝。国王の前で両膝をついた。作法が違う。これは——)
謁見の間が、しんと静まり返った。
文官たちが息を呑む気配がした。
ヴァルゼンの心臓が、破裂しそうなほど早鐘を打っていた。
しかし——
「……ほう」
国王が、低い声で呟いた。
「両膝か」
沈黙。
「片膝が正式な作法であることを、この方が知らぬはずがない。それを承知の上で、両膝をついた。——私に対する、最大限の敬意の表明だ」
(いえ、脚が震えて片膝で止まれなかっただけです)
文官たちの間に、感嘆のざわめきが広がった。
「なんという謙虚さ……」
「勇者パーティの筆頭でありながら、国王に両膝の礼を取るとは……」
「格が違う。これが、魔王の器か」
(器じゃない。脚力の問題だ)
国王が、玉座から身を乗り出した。
「面を上げよ、ヴァルゼン殿」
「は、はい——」
顔を上げた。国王の目が、至近距離で——笑っていた。
威厳はそのままに、しかし目の奥に温かみがあった。
「噂は聞いている。勇者エルヴィンと共に数々の脅威を退け、この国の安寧に寄与した——いや、それだけではない。魔族でありながら人間と共に歩む姿勢は、大戦後のこの時代において、最も必要とされるものだ」
(僕が選んだんじゃなくて、エルヴィンに巻き込まれただけなんですが)
「一つ、聞きたいことがある」
国王の声が、僅かに硬くなった。
「ヴァルゼン殿。大戦の最中、魔王軍との戦いにおいて——お主は何を感じた?」
謁見の間が、再び静まり返った。
国王の問いは重かった。大戦は、この国に深い傷を残した。多くの命が失われた。その戦いの当事者に——しかも魔王側の当事者に、「何を感じたか」と問うている。
(何を感じた。何を感じたって——)
ヴァルゼンの頭の中が、真っ白になった。
政治的に正しい答えが何なのかわからない。外交的に無難な返答が何なのかもわからない。ザガンが事前に用意してくれた想定問答の内容が、全て吹き飛んでいた。
だから——正直に、言った。
「……怖かった、です」
沈黙。
「戦場は、怖かったです。人が死ぬのが怖くて、魔族が死ぬのも怖くて。敵も味方も——死んでいくのが、ただ、怖かった」
謁見の間の空気が、凍りついた。
文官たちが目を見開いている。エルヴィンすら、一瞬言葉を失っていた。
「……僕は強くないです。戦場では何もできなかった。ただ——怖いと思うことだけは、やめられませんでした」
言ってしまった。言ってしまった。最も言ってはいけないことを、国王の前で。
(終わった。完全に終わった。「怖かった」って。魔王が「怖かった」って。こんな情けない——)
国王が——立ち上がった。
玉座から、ゆっくりと立ち上がった。
謁見の間に、衣擦れの音だけが響いた。
国王は、数歩前に出て——ヴァルゼンの目の前に、立った。
「……恐怖を知りながら、戦場に立ったのだな」
「え——」
「怖かった。だが、逃げなかった。死ぬのが怖いと思いながら、それでもそこにいた。——それは勇気だ、ヴァルゼン殿」
(違います。逃げられなかっただけです。逃げる場所がなかっただけです)
「多くの者が勇気を語る。しかし恐怖を知らぬ者の勇気は、蛮勇に過ぎん。真に勇敢な者とは、恐怖を知り、恐怖を抱えたまま、それでも立つ者だ」
国王の目が、真っ直ぐにヴァルゼンを見据えていた。
「私は長くこの国を治めてきた。多くの英雄に会った。だが——こうまで正直に『怖かった』と言える者は、初めてだ」
国王が、ヴァルゼンの肩に手を置いた。
「気に入った」
(気に入られた。国王に気に入られた。正直に言ったら気に入られた。どういう仕組みなんだこの世界は)
謁見の間に、再びざわめきが広がった。今度は、先ほどとは質の異なるざわめきだった。
「国王陛下が——玉座を立たれた……」
「臣下に歩み寄るなど、この十年で一度もなかったことだ……」
「あの魔王、国王の心を一言で動かしたのか……」
エルヴィンが、涙を堪えきれずに目元を拭った。
「やっぱりだ。やっぱりヴァルゼンは——最高の男だ」
グリゼルダが深く頭を下げていた。肩が微かに震えている。泣いていないと言い張るだろうが、明らかに泣いていた。
フェリクスの手帳が止まっていた。ペンを持ったまま、呆然とした顔をしていた。
「……『怖かった』。たったその一言で、国王を玉座から立たせた。これは——政治的計算では絶対に到達できない境地だ。むしろ、計算を一切排したからこそ——」
ミラベルは、もうとっくに泣いていた。声を殺して、両手で口を覆って、ぼろぼろと涙を流していた。
ザガンだけが、静かに微笑んでいた。
「さすがは、陛下」
小さな声だった。皮肉の響きは——なかった。
ヴァルゼンは国王の手の重みを肩に感じながら、頭の中で一つだけ思っていた。
(僕はただ、正直に答えただけなのに。なんでこうなるんだ。なんでいつもこうなるんだ)
答えは出ない。
いつも通り——答えは出ないまま、最弱の魔王は国王の前に跪いていた。
震える膝を、誰もが胆力と呼んだ。
正直な言葉を、誰もが勇気と呼んだ。
ヴァルゼンだけが知っている。それは全部——ただの、弱さだった。
しかしその弱さが、一国の王を玉座から立たせた。
それが何を意味するのか、ヴァルゼンにはまだ——わからなかった。




