噂は馬車より速い
噂は馬車より速い
馬車というものが、これほど過酷な乗り物だとは知らなかった。
出発して半日で、ヴァルゼンの胃は完全に降伏した。王都アルヴェスタへ向かう街道は整備されているとはいえ、石畳の継ぎ目を拾うたびに馬車の車体が跳ねる。その振動が胃を直撃する。内臓が上下左右に揺さぶられる感覚は、大型魔獣に追われた時の恐怖に匹敵した。
(死ぬ。馬車で死ぬ。魔王が馬車酔いで死んだら、歴史上最も情けない死因だ)
顔面は蒼白を通り越して青紫になっていた。唇を固く引き結び、目を閉じ、微動だにしない。動いたら吐く。確実に吐く。だから動かない。動けない。
向かいの座席で、グリゼルダが目を見張った。
「……ヴァルゼン様」
「…………」
「お顔の色が——いえ」
グリゼルダは言葉を改めた。蒼灰色の瞳に、敬意の光が宿る。
「瞑想、ですか」
(瞑想じゃない。吐き気と戦ってるだけだ)
「王都に到着する前に精神を研ぎ澄ましておられるのですね。さすがです。この揺れの中で微動だにしないとは——常人には到底真似できません」
(動けないだけだ。動いたら胃の中身が出る。物理的に出る)
フェリクスが手帳を開きながら頷いた。
「なるほど。馬車という密閉空間を利用して、集中状態に入る。外界の情報を遮断し、謁見に向けた戦略を練っている——合理的です。所要時間五日。五日間の瞑想で、国王との対話のあらゆるパターンを想定するつもりでしょう」
(一つもパターンを想定していない。胃の中身のことしか考えていない)
ミラベルが心配そうにヴァルゼンの顔を覗き込んだ。
「ヴァルゼン様、お顔が青いです……。お辛くはないですか?」
返事をしたかった。しかし口を開くと一緒に別のものも出そうだったので、小さく首を横に振ることしかできなかった。
「あ……お気遣いなく、という意味ですね。ヴァルゼン様はいつもご自分のことは後回しにされて……」
(後回しにしてるんじゃなくて、喋ると吐くから黙ってるだけです)
ミラベルの翡翠色の瞳が潤んだ。予想通り泣き始めた。
エルヴィンは御者台の隣に座って外の景色を眺めていたが、定期的に馬車の中を覗き込んでは「ヴァルゼン、すげえ集中力だな!」と親指を立てた。
(褒めないでくれ。放っておいてくれ。静かにしていてくれ)
唯一、ザガンだけがヴァルゼンの隣で黙って座っていた。何も言わず、ただ時折、さりげなく水筒を差し出してくれた。
(この人だけだ。この人だけがまともだ)
しかしザガンもザガンで、「陛下が五日間の瞑想に入られるのであれば、その間に王都での立ち回りを策定いたしましょう」と独自に作戦を練り始めていたので、まともではなかった。
街道の最初の宿場町に到着したのは、出発から六時間後のことだった。
馬車が停まった瞬間、ヴァルゼンは扉を開けて飛び出し、道端の茂みに突っ込んだ。
数分後、何食わぬ顔で戻ってきたヴァルゼンを、宿場の人々が出迎えた。
「あ、あの方が——」
最初の声は、宿場町の門番だった。
「噂の魔王様だ!」
(もう届いてるのか。噂が。僕たちより先に)
宿場の通りに、人が集まり始めた。商人、職人、子供連れの母親、老人。小さな町とは思えないほどの人数が、瞬く間に沿道を埋めた。
「最凶の魔王が通る!」
「あの合同討伐を指揮した方だ!」
「聞いたぞ、二十八人を率いて大型魔獣を無傷で倒したって!」
(無傷じゃない。何人か怪我はしている。治したけど。ミラベルが)
「あっ、あの方だ! ほら見ろ、顔色が青い!」
「青い? ああ——瞑想か。移動中も精神を練り上げているのだな」
「さすが魔王。格が違う」
(馬車酔いです)
エルヴィンが嬉しそうにヴァルゼンの肩を叩いた。
「見ろよヴァルゼン! お前の噂、もうここまで届いてるぞ!」
「……嬉しくないです」
「またまた! 照れるなって!」
(照れてない。本気で嬉しくない)
宿場の宿屋に入ると、主人が最上の部屋を用意してくれた。代金を払おうとすると、「とんでもございません!」と断られた。
「魔王様からお金をいただくなんて——この町の恥です!」
(お金は払わせてほしい。むしろ払わせてくれないと心苦労で死ぬ)
夕食の席で、宿の主人が興奮気味に語った。
「いやあ、噂はかねがね! この街道沿いでは、もう知らない者はおりませんよ。王都からの行商人が広めたんです。『最凶の魔王が勇者と共に旅をしている。その力は計り知れない』と!」
ヴァルゼンのスプーンが止まった。
「計り知れない……」
「ええ! なにせ、合同討伐で二十八人を——いや、聞いた話では四十人以上を指揮して、被害ゼロで大型魔獣を仕留めたとか!」
(四十人以上に増えてる。被害ゼロにもなってる。噂というのはこうやって育つのか)
フェリクスが手帳に書き込みながら、小声で呟いた。
「情報の伝播速度と変容率が想定以上ですね。街道沿いの商人ネットワークを経由して、噂が自己増殖している。……しかしこれは、魔王殿が意図的に情報を流した可能性も——」
(流してない。一滴も流してない)
ザガンが、穏やかに茶を啜った。
「陛下。噂というものは、止めるよりも利用する方が賢明です」
「利用って——」
「王都に到着した時点で、すでに陛下の名声は確立されている。これは外交上、極めて有利な状況です」
(有利じゃなくて不利だ。期待値が上がれば上がるほど、本当の僕を知った時の落差が大きくなる。つまり、バレた時の被害が甚大になる)
しかしそんなことは言えない。言えるわけがない。
宿の窓から外を見ると、まだ通りに人が残っていた。ヴァルゼンの泊まっている部屋を見上げて、何やらひそひそ話をしている。
「明かりが灯ったぞ。魔王様、まだ起きていらっしゃる」
「きっと明日の行程を計算しておられるのだろう」
(歯を磨いてるだけです)
ヴァルゼンは窓の灯りを消して、布団に潜り込んだ。
暗闇の中で、天井を見つめた。
(あと四日。あと四日で王都に着く。王都に着いたら、国王に会わなければならない。国王の前で——何を言えばいいんだ。何をすればいいんだ)
答えは出なかった。
ただ、馬車酔いで空っぽになった胃だけが、きゅるると情けない音を立てた。
明日もまた、馬車に揺られるのだ。
五日間の「瞑想」は、まだ始まったばかりだった。




