「いつも通りにしていればいい」——それが一番怖いんですけど
「いつも通りにしていればいい」——それが一番怖いんですけど
出発前夜。
ヴァルゼンは眠れなかった。
宿の部屋の天井を見つめながら、明日から始まる王都への旅路のことを考えると、腹の底がきりきりと痛んだ。
(王都まで馬車で五日。五日後には国王の前に立っている。立たされている。そこで何を言えばいい。何をすればいい。「初めまして、最弱の魔王です。噂は全部嘘です」とでも言うのか。言えるわけがない)
寝返りを打つ。打っても打っても楽な姿勢が見つからない。
眠れないまま起き出して、宿の一階に降りた。深夜の食堂には誰もいない——はずだった。
「おや。陛下」
ザガンがテーブルに座っていた。手元には温かい茶と、何かの書類が広げられている。
「ザガン……。眠れないんですか?」
「老いた魔族は眠りが浅いのです。——陛下こそ」
「……ええ、まあ」
向かいの椅子に座った。ザガンが黙って茶を注いでくれた。温かい液体が喉を通ると、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
「不安ですか」
「……はい」
素直に認めた。ザガンの前では、不思議と見栄を張れない。この人は——おそらくパーティの中で唯一、ヴァルゼンの「弱さ」を何らかの形で理解している人だから。
「王都には、きっと偉い人がたくさんいます。将軍とか、大臣とか、貴族とか。その人たちの前で——僕が魔王として振る舞うなんて、無理です」
「振る舞う必要はありません」
「え?」
「いつも通りになさればよろしい」
また、それだ。
「ザガン、それが一番怖いんですけど」
「なぜです」
「いつも通りにしたら——いつも通りのことが起こるでしょう。怯えて、黙り込んで、的外れなことを口走って——それを皆が盛大に誤解して——」
「ええ。その通りです」
(認めた。この人、いま全面的に認めた)
「しかし陛下。その『いつも通り』で、あなたは合同討伐を成功させ、虚淵の被害を未然に防ぎ、数十名の冒険者の命を守り、王都に名が届くほどの信頼を勝ち得ました」
「……それは偶然で——」
「これほど多くの偶然を、偶然と呼びますか」
(多くの偶然。確かに振り返れば、全部が全部うまくいきすぎている気はする。でもそれは本当にただの偶然なんだってば)
「陛下。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「……はい」
「あなたが恐れているのは、『王都で失敗すること』ですか。それとも——」
ザガンが琥珀色の瞳を細めた。
「『仲間に失望されること』ですか」
ヴァルゼンの心臓が跳ねた。
図星だった。
王都で恥をかくことは怖い。だがそれ以上に——エルヴィンが「やはり俺の見る目は正しかった」と誇らしげに語る、あの笑顔が曇ることが。グリゼルダが膝を折る、あの揺るぎない敬意が消えることが。フェリクスが手帳に書き込む、あの知的な興奮が失望に変わることが。ミラベルが泣きながら「お優しい」と言う、あの純粋な信頼が壊れることが。
それが——何より、怖かった。
「……両方です。でも——後者の方が、ずっと」
「やはり、そうですか」
ザガンが茶を一口飲んだ。
「陛下。私は参謀として、一つだけ進言いたします」
「はい」
「あなたの仲間たちは——馬鹿です」
(……え?)
「エルヴィンは思い込みの塊です。グリゼルダは武人の美学に囚われた不器用者です。フェリクスは自分の理論に酔った変人です。ミラベルは感極まると前が見えなくなるお人好しです」
(そ、そこまではっきり言うのか。全員の悪口を一気に)
「しかし——だからこそ、彼らはあなたを見限りません」
「……え」
「あの者たちが信じているのは、あなたの『強さ』ではない。あなたの『人となり』です。強さなど飾りに過ぎません。彼らは——あなたという人物を選んだのです」
ヴァルゼンは口を開いたが、言葉が出なかった。
「もちろん、その『人となり』の解釈が全員盛大にずれていますが」
(台無しだ)
「ですが、方向がずれているだけで、根は同じです。あなたのそばにいたいと思っている。それは事実です」
深夜の食堂に沈黙が落ちた。
ヴァルゼンは茶碗を両手で包み込むようにして持ち、温かさを感じていた。
「……ザガンは、どうなんですか」
「何がです」
「あなたは——なぜ、僕のそばにいるんですか」
ザガンが目を伏せた。珍しい表情だった。
「先代にお仕えしていた頃、一度だけ問うたことがあります。『魔王とは何か』と」
「……先代は、何と?」
「『わからん。だが、わからないまま歩き続けることが、魔王の務めだ』と」
ザガンの尾がゆっくりと揺れた。
「陛下。あなたは今、まさにわからないまま歩いておられる。——私がそばにいる理由は、それで十分です」
ヴァルゼンは何も言えなかった。
代わりに、冷めかけた茶を飲み干した。
翌朝。
「出発だ!」
エルヴィンの声が宿中に響き渡った。荷物を背負い、聖剣を背に、金髪が朝日に輝いている。その横でグリゼルダが甲冑の調整をし、フェリクスが旅の荷物と論文の束を同じ鞄に詰め込んでいた。ミラベルは新しい僧衣に身を包み、少し緊張した面持ちで佇んでいる。
「ヴァルゼン。準備はいいか?」
エルヴィンが真っ直ぐな目で問いかけた。
「……はい」
嘘だった。準備なんかできていない。王都で何が起こるかわからない。自分が何をすべきかもわからない。
でも——この人たちと一緒なら、わからないまま歩いてもいいのかもしれない。
そう思えたのは、昨夜の茶のおかげだったかもしれない。
「パーティ全員がいつも通りなら、王都でも堂々と——いや、それ以上に圧倒してしまうかもしれませんね」
フェリクスが薄く笑った。
「ああ! 王都の連中を驚かせてやろうぜ!」
エルヴィンが拳を突き上げた。
(いつも通りにしたら王都が大変なことになる。それだけは確信している。確信しているのに止められない。この流れは止められない)
「……いつも通りで、いきましょう」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
パーティの面々が一斉に笑った。
ザガンだけが、三歩後ろで静かに微笑んでいた。




