美味しくて泣いただけなのに「誰にも見せられない涙」と解釈された
美味しくて泣いただけなのに「誰にも見せられない涙」と解釈された
それは、何の変哲もない夕食の席だった。
合同討伐から数日が経ち、パーティは拠点にしている宿の一角でくつろいでいた。虚淵の調査をフェリクスが進めている間、特に大きな依頼もなく、久しぶりの穏やかな日常が戻ってきている。
ヴァルゼンにとっては、この何でもない時間が一番ありがたかった。
(命の危険がない。誰も僕に期待していない。素晴らしい。最高だ。この穏やかさが永遠に続けばいい)
そう思っていたのだが。
「ヴァルゼン様、今日は私が夕食を作りますね」
ミラベルが袖を捲りながら宣言した。
「え、いいんですか? わざわざ——」
「はい! 皆さん最近お疲れでしたし、温かいものを食べていただきたくて」
ミラベルの笑顔は、いつ見ても柔らかい。この笑顔だけがパーティの癒しだとヴァルゼンは本気で思っていた。エルヴィンの太陽のような笑顔は眩しすぎるし、グリゼルダの笑顔は傷が歪んで迫力があるし、フェリクスはそもそもあまり笑わないし、ザガンの笑みは含みがありすぎて怖い。
一時間ほどして、食卓に並んだのは野菜がたっぷり入った煮込み料理だった。素朴だが、丁寧に下ごしらえされた具材から湯気が立ち昇り、香辛料のいい匂いが部屋に広がっている。
「おお! うまそうだな!」
エルヴィンが目を輝かせた。彼はいつもこうだ。食事に関しては素直な反応しか見せない。
「いただきます」
ヴァルゼンは匙を取り、一口目を運んだ。
——美味しかった。
比喩ではなく、本当に、ただ純粋に美味しかった。
じっくり煮込まれた野菜の甘みと、肉の旨味と、ほんのりとした塩加減が口の中に広がった瞬間、ヴァルゼンの目にじわりと涙が浮かんだ。
(美味しい。すごく美味しい。温かい。こういう食事、魔王軍にいた頃は一度もなかった)
魔王の座にいた頃、食事は一人だった。侍従が運んでくる無機質な料理を、広すぎる玉座の間で黙々と食べた。味なんか覚えていない。空腹を満たすだけの行為だった。
でも今は——こうして仲間と食卓を囲んで、誰かが自分たちのために作ってくれた料理を食べている。
それがどうしようもなく嬉しくて、涙が止まらなかった。
「……美味しいです、ミラベルさん。すごく」
声が少し震えていたのは自覚していた。でも隠す必要はないと思った。素直に美味しいと伝えたかっただけだ。
——しかし、テーブルが凍りついた。
エルヴィンが匙を止めた。グリゼルダが背筋を正した。フェリクスがモノクルの位置を直した。ザガンが目を細めた。
そしてミラベルが——泣いた。
「ヴァルゼン様……っ」
「え、あの、ミラベルさん? なんで泣いて——」
「あの方が……涙を……」
ミラベルは両手で口元を押さえ、翡翠色の瞳から大粒の涙をこぼしていた。
「普段は決してお見せにならない感情を……私の料理で、心の壁が少しだけ緩んで……」
(いや、壁とかそういうのじゃなくて、普通に美味しかっただけなんですが)
「ああ……ヴァルゼン様が、誰にも見せられない涙を、私たちの前で見せてくださった……!」
(見せられない涙ではない。美味しくて泣いただけだ。世の中の人間は美味しいもの食べて泣くことあるだろう。あるよね? ……ないのか?)
エルヴィンが立ち上がった。椅子が盛大に鳴った。
「ヴァルゼン。お前が——涙を見せたのは、俺が知る限り初めてだ」
(いや、何回か泣いてるけど。怖くて泣いたこと少なくとも五回はあるけど。全部違う解釈されてたけど)
「あの魔王が泣くほどの味——ミラベル、お前の料理はすごいぞ!」
「えっ、い、いえ、そんな……普通の煮込みですよ……?」
「普通の煮込みで魔王の涙を引き出した! これは歴史的快挙だ!」
(歴史的快挙ではない。美味しいものは美味しい。それだけだ)
グリゼルダが深く頷いた。
「……あの方が涙を流される姿を見て、不覚にも胸が震えた。常に泰然としていらっしゃるからこそ、一滴の涙に万感の重みがある」
(泰然としてないし、涙に重みもない。繰り返すが、ただ美味しかっただけだ)
フェリクスが手帳を取り出した。
「メモしていいですか。『魔王殿が感情を露わにする条件——仮説七:信頼できる仲間との食事という限定された環境において、心理的防壁の維持コストが一時的に閾値を下回る』」
(仮説七。七つ目。この人、僕の涙についてすでに六つも仮説を立てていたのか)
「ここまで完璧に感情を制御し続けてきた人物が、ほんの一瞬だけ綻びを見せた。これは——貴重なデータですよ、魔王殿」
「データ……」
ヴァルゼンは自分の涙がデータとして記録される未来に軽い眩暈を覚えた。
ザガンだけが、静かに煮込みを食べ続けていた。
「陛下」
食事が一段落した後、ザガンが小声で言った。
「はい……」
「美味しかったですか」
「……はい。本当に」
「そうですか。——それは、よいことです」
珍しく、それ以上何も言わなかった。尾の先端が穏やかに揺れているのが見えた。
ミラベルはその後、「ヴァルゼン様の涙の味」と名付けた煮込みを定番メニューに加えた。
(名前。名前がもう色々おかしい)
翌日、エルヴィンが宿の主人に「昨夜、魔王が涙を流した」と嬉しそうに語っているのを耳にして、ヴァルゼンは部屋の隅で頭を抱えた。
(明日にはこの町中に広まっている。「最凶の魔王が涙を流した夜」とか言われる。絶対言われる)
予感は的中し、翌朝には宿の食堂で冒険者たちがひそひそと噂していた。
「あの魔王が泣いたらしい」
「嘘だろ。あの——あの魔王が?」
「ああ。仲間の手料理で。誰にも見せたことのない涙を——」
(だから美味しかっただけだってば)
ヴァルゼンの訂正は、誰にも届かなかった。




