木の棒を適当に振ったら「無形の剣」と泣かれた
木の棒を適当に振ったら「無形の剣」と泣かれた
それは朝の鍛錬の時間に起きた。
グリゼルダは毎朝、日の出とともに型稽古をする。大剣を構え、呼吸を整え、一振り一振りを丁寧に繰り返す。それはもう、この旅における朝の風物詩のようなものだった。
ヴァルゼンはいつも少し離れた場所から、その光景を眺めていた。グリゼルダの剣は美しい。武人が生涯をかけて磨き上げた型の美しさがそこにある——ということくらいは、剣を振れない自分にもわかる。
だから今朝も、いつも通り眺めていた。
問題は——グリゼルダがこちらに気づいたことだった。
「ヴァルゼン様。毎朝ご覧いただいているのは存じております」
「あ——す、すみません。邪魔でしたか」
「いいえ。むしろ光栄です。——ですが、今朝はお願いがあります」
グリゼルダの蒼灰色の瞳が、真剣そのものの光を湛えていた。
「もう一度、剣をお見せいただけませんか」
(来た。来てしまった。この話題が来てしまった)
以前にも一度、グリゼルダに「剣を見せてほしい」と頼まれたことがある。あの時は適当に木の棒を振って、なぜか大絶賛された。
(あの時の二の舞は避けたい。全力で避けたい。でも——グリゼルダの目が本気すぎて断れない)
「いや、あの、僕の剣は大したものでは——」
「ご謙遜を。あの日拝見した一振りは、私の剣の概念を根底から覆しました。あれ以来——ずっと、もう一度見たいと思っていたのです」
(覆したのか。僕が適当に振った棒切れで。一体何が覆ったんだ)
エルヴィンが朝食の準備をしながら、にやりと笑った。
「おう、やれやれ。グリゼルダがああ言ってるんだ。見せてやれよ」
フェリクスが手帳を構えた。
「今回は記録します。前回は不意打ちで観測できなかったので」
ミラベルが両手を胸の前で組んだ。
「ヴァルゼン様の剣……私も拝見したいです……!」
(全員が見る気だ。逃げ場がない。完全に逃げ場がない)
ザガンが、無言で一本の棒を差し出した。
ちょうど手に馴染む太さの、まっすぐな木の枝。
「……ありがとうございます」
(いつの間に用意していたんだ。この人は読心術でも使えるのか)
ヴァルゼンは棒を受け取って、グリゼルダの前に立った。
全員の視線が集中している。特にグリゼルダの目が——猛禽類のように鋭い。
(どうする。何を振ればいい。前回は適当に振ったらなぜか評価された。じゃあ今回も——適当に振るしかない)
深呼吸した。
棒を両手で持った。
そして——思い切り振った。
ぶん、と間の抜けた音が鳴った。遠心力で体が持っていかれそうになり、必死で踏ん張った。
(うわ、危ない。すっぽ抜けるところだった)
続けて、逆方向に振った。今度は力を入れすぎて、腕が痺れた。
もう一振り。これは単に腕を振り上げて降ろしただけだ。薪割りの動作と大差ない。
最後に、何となく突きの動作をした。棒の先端がぶれて、狙った方向から大きくずれた。
以上。
合計四振り。どれも素人が木の棒を振っただけの、何の技術もない動作だった。
沈黙が落ちた。
(あ、終わった。今回はさすがにバレたかもしれない。あれで「すごい」と言う方が無理がある)
「——」
グリゼルダが、膝をついた。
大剣を地面に突き立て、額に手を当てて——震えていた。
「グ、グリゼルダさん?」
「……型が、ない」
「え?」
「型がないのです。一振り目は私が知るどの流派にも属さない軌道。二振り目は力の方向が常識を逸脱している。三振り目は重力そのものを武器にした原初の一撃。そして四振り目の突きは——」
グリゼルダが顔を上げた。
泣いていた。
歴戦の女騎士が、頬を涙で濡らしていた。
「あの突きは、空間を穿っていました。刺すのではなく、空間そのものに穴を開ける——武の究極が、あそこにあった」
(空間に穴を開けてない。棒がぶれただけだ。狙いが外れただけだ)
「無形。これが——無形の剣」
グリゼルダの声が震えていた。
「型を極めた先にあるのは、型を捨てること。私は頭ではわかっていた。しかし実際にそれを体現する者を目の当たりにするのは——生まれて初めてです」
(型を捨てたんじゃない。最初から型を知らないんだ。知らないものは捨てようがない)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが立ち上がり、深く——深く頭を下げた。
「ありがとうございます。私は今日、武の深淵を覗きました。この恩は——この剣をもってお返しします」
(返さなくていい。本当に返さなくていい。というか覗いた深淵は虚無だ。そこには何もない。僕の剣技には文字通り何もないんだ)
「おお……!」
エルヴィンが感嘆の声を上げた。
「グリゼルダが泣いている……! あのグリゼルダが……! ヴァルゼン、お前の剣はそこまでのものだったのか……!」
「違います。本当に違うんですけど——」
「さすがです、ヴァルゼン様……!」
ミラベルも泣いている。二人して泣いている。朝から泣きすぎだ。
フェリクスが猛然と手帳に書き込んでいる。
「無形の剣。型の否定による究極の実戦形態。いや——否定ですらない。型という概念そのものが存在しない次元。これは新たな武術理論の萌芽と言える」
(萌芽じゃない。ただの素人だ)
ザガンが、傍らで静かに微笑んでいた。尾の先端が、楽しげに揺れている。
「陛下。見事でした」
「……ザガンまでそう言うんですか」
「ええ。あの四振りで、グリゼルダ殿の迷いが晴れた。それは——事実です」
(事実なのか。棒を振っただけで人の迷いが晴れるのか。僕の振った棒に、そんな力があるのか。……あるわけないだろう)
ヴァルゼンは木の棒を地面に置いた。
手のひらに、棒を握った感触が残っている。何の変哲もない、ただの木の棒だった。
(でも——グリゼルダが泣くほど感動したのは、本当だ。理由は全部間違っているけど、感動そのものは本物だ。それを——否定するのは、なんだか申し訳ない気がする)
朝食の席で、グリゼルダはいつもより饒舌だった。
「あの三振り目の、重力を利用した斬り下ろし——あれを私なりに解釈すると……」
延々と語り続けるグリゼルダを、フェリクスが「それは力学的にはこう説明できる」と分析し、エルヴィンが「やはりヴァルゼンは別格だ」と締め、ミラベルが「素敵です……」と目を潤ませた。
ヴァルゼンはパンを齧りながら、静かに思った。
(武人フィルター。この人のフィルターは——もう、何をしても突破できないんだろうな)
木の棒が、朝日に照らされて光っていた。
ただの棒だ。
でもグリゼルダにとっては——「武の究極」を示した聖なる棒なのだろう。
(……まあ、いいか。喜んでくれたなら、それで)
そう思えるようになったのは、きっと——少しだけ、変わったということなのだと思う。




