この人たちを失いたくない——そう思うのは罪ですか
この人たちを失いたくない——そう思うのは罪ですか
何もない一日だった。
依頼もなく、事件もなく、虚淵の兆候もなく——ただ穏やかに、時間が流れた。
次の街へ向かう道中、パーティは川沿いの野営地で一泊することにした。天気は快晴。風は穏やかで、木漏れ日が川面に踊っている。
こういう日が、ヴァルゼンは一番好きだった。
一番好きで——一番怖かった。
(平和だ。あまりにも平和だ。こういう日は、いつか終わる。必ず終わる。——だからこそ、大事にしなきゃいけないんだろうけど)
エルヴィンは川で魚を突いていた。聖剣で。
「エルヴィンさん。聖剣で魚を突くのは——」
「心配するな! 聖剣は持ち主の意志に応えるのだ。今の俺の意志は『魚が食いたい』だ!」
「いえ、そういう問題では——」
「やった! 大物だぞ、ヴァルゼン!」
金色の聖光を纏った切っ先に、見事な川魚が突き刺さっていた。聖なる光で魚を突く勇者。画としては完全に間違っている。
(でも——楽しそうだな、エルヴィンさん)
エルヴィンの笑顔は、いつだって眩しい。太陽のようだと人は言う。ヴァルゼンにとっては眩しすぎて直視できないくらいだが——その眩しさに、いつの間にか救われている自分がいた。
あの日、放浪中の自分を見つけて、壮大な誤解をして、「仲間になれ」と言ってくれた人。
(あの出会いがなかったら、僕は今頃——どこで何をしていたんだろう)
考えたくなかった。考えると、胸の奥がきゅっと痛くなる。
グリゼルダは木陰で大剣の手入れをしていた。砥石を当てる規則的な音が、川のせせらぎと重なって心地よい。
「ヴァルゼン様。お暇でしたら、隣にどうぞ」
「あ——いいんですか」
「ええ。剣の手入れは、静かな相手がいると捗ります」
隣に座った。グリゼルダの手元を何となく眺めた。大きな手が、繊細な動きで刃を研いでいく。武骨な見た目とは裏腹に、手入れの所作は芸術的なまでに丁寧だった。
「ヴァルゼン様」
「はい」
「私はかつて、部隊を失いました」
唐突な告白だった。グリゼルダは砥石を当てる手を止めなかった。
「守れなかった。私の力では——守り切れなかった」
「……」
「ですから、今度は守り抜く。この剣にかけて——二度と、仲間を失わない」
グリゼルダの蒼灰色の瞳が、一瞬だけヴァルゼンを見た。そこに宿っていたのは、武人の誓いだった。
「ヴァルゼン様の背中は、必ず。——お任せください」
(僕の背中を守ると言ってくれている。この人は、本気でそう思っている。僕の背中に、守る価値なんてないのに)
胸が熱くなった。砥石の音を聞きながら、黙って隣に座り続けた。
夕方、フェリクスが珍しく手帳を閉じていた。川辺の岩に腰掛けて、ぼんやりと空を眺めている。
「珍しいですね。手帳を書いてないなんて」
「たまにはね。データを集めるだけが研究ではありません。——整理の時間も必要だ」
フェリクスがモノクルを外した。素顔を見るのは、数えるほどしかない。モノクルの下の目は、意外なほど柔らかかった。
「魔王殿」
「はい」
「僕があなたについて書いた分析は、おそらく半分以上が見当違いです」
(えっ。自覚あったんだ。いや、でも——)
「ですが、見当違いの分析を続けるだけの価値がある。あなたは、僕がこれまで出会ったどんな存在とも違う。理解できないということ自体が——実に、面白い」
フェリクスが薄く笑った。
「だからこの旅を続けている。それだけのことです」
(この人なりの、仲間でいる理由——なのかな)
夕食の準備は、ミラベルとザガンが担当した。
ミラベルは川魚を丁寧にさばき——いや、さばこうとして、三回ほど悲鳴を上げた。
「きゃっ——ごめんなさい、ごめんなさいお魚さん——!」
「ミラベル殿。魚はすでに絶命しております。謝る必要はありません」
「でもザガンさん、目が合ったんです……!」
「死んだ魚の目です」
結局ザガンが全部さばいた。ミラベルは申し訳なさそうに香草を刻む係に回された。
焼き魚が出来上がって、六人で焚き火を囲んだ。
エルヴィンが「俺の突いた魚だぞ」と自慢し、グリゼルダが「聖剣の無駄遣いだ」と呆れ、フェリクスが「聖属性の付与された魚の味覚変化を記録すべきだ」と手帳を開き、ミラベルが「美味しい……!」と涙ぐみ、ザガンが「陛下、骨にお気をつけください」と取り皿を差し出した。
いつもの夕食だった。
何の変哲もない、いつもの夕食。
だがヴァルゼンは——焼き魚を一口食べて、不意に目の奥が熱くなった。
(ああ、だめだ。こういう時に——来るんだよな、この感覚)
誰にも気づかれないように、目を伏せた。
(僕は最弱だ。それは変わらない。いつかバレるかもしれない。バレたら追い出されるかもしれない。でも——)
エルヴィンが笑っている。グリゼルダが微笑んでいる。フェリクスが手帳を書いている。ミラベルが泣いている。ザガンが茶を淹れている。
(この人たちを——失いたくない)
その感情は、恐怖とは違った。
追い出されたくないという恐れでもなく、居場所を失う不安でもなく——もっと純粋な、もっと真っ直ぐな、何か。
(この人たちと一緒にいたい。一緒に旅を続けたい。一緒に焚き火を囲んで、くだらない話をして、たまにとんでもない誤解をされて、胃を痛めながら——それでも、一緒にいたい)
失いたくない。
そう思うのは——弱い自分には、身の丈に合わない贅沢なのかもしれない。
でも。
「ヴァルゼン様、どうかされましたか? お魚の骨が……?」
ミラベルが心配そうに覗き込んできた。
「い、いえ。大丈夫です。美味しいです。とても」
「よかった……!」
ミラベルが安心したように微笑んだ。その笑顔がまた、胸に沁みた。
「ヴァルゼン」
エルヴィンが、こちらに魚をもう一匹寄越した。
「食え。お前は細いんだから、もっと食わないと」
「あ——ありがとうございます」
焚き火が暖かい。魚が美味しい。仲間がいる。
たったそれだけのことが——今のヴァルゼンには、世界で一番大切なものだった。
(失いたくない。この時間を。この人たちを。——そう思うのは、罪ですか)
誰にも聞こえない声で、そう問いかけた。
答えは返ってこなかった。
でも——焚き火の炎は、優しく揺れていた。




