世界がどこかおかしくなっている——先代の時代にも似た現象があった?
世界がどこかおかしくなっている——先代の時代にも似た現象があった?
夜の見張り番は、いつもザガンと二人だった。
他のメンバーが寝静まった後、焚き火の前で沈黙する時間。ヴァルゼンにとってそれは、パーティの中で最も緊張する時間帯のはずだった。
——はずだった、のだが。
(最近、少しだけ慣れてきた。ほんの少しだけ。ザガンの沈黙が、昔ほど怖くない。……いや、嘘だ。やっぱり怖い。でも前よりはマシだ)
焚き火が爆ぜる音だけが響く。ザガンは長衣の裾を整え、火を見つめている。琥珀色の瞳に炎の色が映り込んで、揺れている。
「ザガン」
「はい」
「あの——あの日のこと。空間が歪んだ時のこと、なんですけど」
「ええ」
「あれ……何だったんでしょうか」
ザガンは答えなかった。しばらく沈黙が続いて、ヴァルゼンは自分が間違ったことを聞いたのかと不安になった。
だがザガンは、答えを渋っていたのではなかった。言葉を——選んでいたのだ。
「陛下。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「あの時感じたもの。それは——今も感じておいでですか」
心臓が跳ねた。
(気づいていた。やっぱりこの人は、何もかも見ている)
「……はい。ずっと——肌の下が、ざわざわするんです。何かが遠くで壊れているような、魔力の流れが軋んでいるような。上手く言えないんですけど」
ザガンが、小さく息を吐いた。
それは——ため息ではなかった。確認だった。覚悟を決めるための、一呼吸だった。
「陛下。先代の——先代魔王の治世の末期に、似た現象がありました」
ヴァルゼンの背筋が冷えた。
「先代の時代に?」
「ええ。大戦の末期。戦場が拡大し、各地の大地が踏み荒らされ、膨大な魔力が消費された頃です。最初は小さなものでした。草原の一角が——朝起きたら、なくなっていた」
「なくなっていた……?」
「跡形もなく。破壊されたのではなく、最初からそこには何もなかったかのように。地面に穴が開いたのではない。穴すら存在しない。ただ、あるべきものが——ない」
ヴァルゼンは焚き火を見た。炎の温かさが、急に遠くなった気がした。
「先代は、それに気づいておられました。おそらく、陛下と同じように——感じておられたのでしょう」
「先代も、感じていた……」
「ですが大戦の混乱の中で、対処する余裕がなかった。人間側の攻勢は激しさを増し、先代は戦場に立ち続けるしかなかった。そして——」
ザガンの声が、僅かに低くなった。
「先代は斃れ、現象は放置されました。大戦の終結とともに一時的に収まったかに見えましたが——収まったのではなく、進行が遅くなっただけだったのかもしれません」
焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がって、星と混ざって消えた。
「ザガン。それって——」
「世界がどこかでおかしくなっている。ゆっくりと、しかし確実に」
ザガンが炎から目を上げて、ヴァルゼンを見た。
「陛下。あなたが感じている違和感は——おそらく、正しい」
(正しい。正しいって言われても。僕はただ「嫌な感じがする」と言っているだけなのに)
「ザガン、僕は——」
「あの方には見えている」
ザガンが、独り言のように呟いた。いや——独り言ではなかった。ヴァルゼンに向けた言葉だったが、同時に自分自身への確認でもあったのだろう。
「先代にも見えていた。しかし先代は、それに対処する手段を——あるいは時間を、持たなかった。ですが陛下」
ザガンの琥珀色の瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを射抜いた。
「あなたには、仲間がいる」
その一言が、焚き火の温かさよりも深く、ヴァルゼンの胸に沁みた。
(仲間。そう——仲間がいる。頼れる人たちがいる。先代とは違う。僕は一人じゃない)
「……ザガン」
「はい」
「もし——もし本当に、世界がおかしくなっているなら。僕に、何ができるんでしょうか」
ザガンは微笑んだ。数百年を生きた者の、静かで深い微笑みだった。
「それは、これからお考えになればよろしい。今夜のところは——焚き火が消えないよう、薪を足すところから始めましょう」
そう言って、手元の薪を一本、火にくべた。
炎が大きくなって、二人の影が揺れた。
(世界がおかしくなっている。でも——今この瞬間、焚き火は温かい。ザガンは隣にいる。テントの中では、みんなが寝ている。それだけは確かだ)
ヴァルゼンも薪を一本拾って、火にくべた。不器用に投げ入れたせいで火の粉が派手に散って、ザガンの長衣の裾を焦がしかけた。
「す、すみません——!」
「いえ。陛下の薪のくべ方は、いつも豪快ですな」
(豪快じゃない。下手なだけだ)
だが——ザガンの尾の先端が、僅かに揺れていた。
楽しんでいるのだ。この人は、こんな些細なやり取りを——楽しんでいる。
ヴァルゼンは少しだけ、肩の力を抜いた。
肌の下のざわめきは消えない。世界の軋みも消えない。
でも今夜は——焚き火が温かかった。それだけで、十分だった。




