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最弱魔王なのに勇者パーティに『史上最凶の魔王』と誤解されています〜怖くて訂正できないまま世界を救うことになりました〜  作者: 蒼月よる


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あの空間の歪みは何だったのか——賢者が調査を始めた

 あの空間の歪みは何だったのか——賢者が調査を始めた


 虚淵の兆候が消えて、三日が経った。


 あの日——都市近郊の街道で空間が歪み、大地が軋み、空気が消えかけたあの日から、ヴァルゼンの胃はずっと重い。


(あれは何だったんだ。いや、何だったかはわかる。嫌な感じがして、全力で叫んで、住民が逃げて、歪みが消えた。問題は——あの嫌な感じが、まだ消えてないってことだ)


 肌の下を何かがざわざわと這い回るような不快感。魔力の流れが、どこか遠くで軋んでいるような——そんな、言葉にできない違和感が、今もずっと身体に残っている。


 ヴァルゼンが宿の窓から外を眺めていると、背後でペンが紙を走る音が響いた。


 三日間ずっと響いている音だ。


「フェリクス、寝た方がいいんじゃ——」


「もう少しです。もう少しで、仮説が繋がる」


 振り返ると、フェリクスは宿の机に向かって膨大な量の羊皮紙を広げていた。モノクルの奥の瞳が、異様な光を帯びている。三日間ほぼ不眠で調査を続けている賢者の目には、狂気に近い知的興奮が宿っていた。


(怖い。あの目が怖い。学者が何かに取り憑かれた時の目だ)


「魔王殿」


 フェリクスがペンを置いた。そして——立ち上がって、壁に貼り出した図表の前に立った。


「あの現象について、現時点での分析結果をお伝えします」


「あ、はい」


(聞きたくない気もするけど、聞かないわけにもいかない)


「まず事実の確認から。あの日、街道の一画で空間構造そのものに歪みが発生しました。通常の魔物の暴走でも、暴発した魔法でもない。空間が——文字通り、消えかけていた」


 フェリクスの声は冷静だったが、最後の一語だけ微かに震えた。


「消えかけていた……」


「ええ。物質が破壊されたのではありません。存在そのものが希薄化していた。僕の解析魔法で確認した限り、あの区域の魔力密度は周辺の十分の一以下にまで低下していました」


(魔力が消えていた。だから——あの、嫌な感じがしたのか)


「原因は不明です。ただし一つだけ確実に言えることがある」


 フェリクスがヴァルゼンを真っ直ぐに見た。


「魔王殿。あなたが異変を感知していなければ、あの区域にいた住民——推定で三十名以上が、消滅していました」


「……っ」


 消滅。破壊ではなく、消滅。その言葉の重さが、ヴァルゼンの胸に沈んだ。


「あなたは異変が目に見える形で発現する前に、その前兆を捉えた。通常の魔法による感知では不可能な精度です。僕のモノクルですら、現象が始まってからでないと検出できなかった」


(いやいやいや。あれは「なんか嫌な感じがする」って言っただけだ。精度とか精密とか、そういう話じゃない。犬が地震の前に吠えるのと同じだ)


「つまり——」


 フェリクスが手帳を開き、何かを書きつけた。


「魔王殿の感知能力は、現象の発現よりも先に魔力の異常を捕捉できる。これは、あの方が魔力の流れそのものを直接知覚していることを意味する」


 それから顔を上げて、こう言った。


「魔王殿の感知力がなければ、壊滅していた。——これは記録に残しておくべき事実です」


(記録。何に記録するんだ。まさか論文に書くのか。やめてくれ本当に)


 扉が開いて、エルヴィンが入ってきた。手には市場で買ってきたらしい果物の袋を提げている。


「おう、フェリクス。まだやってたのか。で、何かわかったか?」


「魔王殿の感知能力が、現象の発現に先行して異常を捕捉したことが確認されました」


「やっぱりな!」


 エルヴィンが果物を机に置いて、ヴァルゼンの肩をバシンと叩いた。


「俺にはわかっていたぞ。あの時のヴァルゼンの目——あれは、すべてを見通した者の目だった」


(見通してない。何も見通してない。嫌な感じがして「逃げて!」って叫んだだけだ。ただのパニックだ)


「エルヴィン殿。あの現象について、一つ気がかりなことがあるのですが」


「何だ?」


「あれが一度きりの現象である保証がありません」


 フェリクスの言葉に、部屋の空気が変わった。


 エルヴィンの表情から笑みが消えた。


「……つまり、また起きる可能性がある、と?」


「可能性ではなく、蓋然性が高いと考えています。あの現象の根本原因が解明されていない以上、再発は想定すべきです」


 沈黙が落ちた。


 ヴァルゼンは窓の外を見た。街並みは平穏そのもので、市場では商人が声を張り上げ、子供たちが路地を駆け回っている。三日前にこの街の近くで空間が消えかけたことなど、誰も知らない。


(また起きる。あの——空間が消える現象が。次は、もっと大きいかもしれない)


 肌の下のざわめきが、一段強くなった気がした。


「フェリクス」


 エルヴィンが静かに言った。


「調査を続けてくれ。必要なものがあれば何でも言え。——ヴァルゼンの感知に頼るだけじゃなく、俺たちにもできることがあるはずだ」


「無論です。すでにギルド本部への報告書も準備しています」


(ギルド本部。……事が大きくなっていく。どんどん大きくなっていく)


 フェリクスが再び机に向かい、ペンを走らせ始めた。


 エルヴィンは果物を一つ取ると、黙ってヴァルゼンに差し出した。


「食え。腹が減っては何も見えなくなる」


「……ありがとうございます」


 果物を受け取って、小さく齧った。甘かった。


 甘かったけれど——肌の下のざわめきは、消えなかった。


 フェリクスの手帳の最後のページに、こう記されていた。


『虚淵事変報告書(暫定版)。結論——魔王ヴァルゼンの感知能力は、人類が保有するいかなる魔術的探知手段をも凌駕する。この能力なくして、今後予想される同種の現象に対処することは不可能と断ぜざるを得ない』


 ヴァルゼンがその記述を読むことは——当分、なかった。


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