空間の歪みが発生した。僕の魔力感知だけが異変を捉えている
空間の歪みが発生した。僕の魔力感知だけが異変を捉えている
それは、何の前触れもなく始まった。
ルーゼン滞在五日目の夕刻。ヴァルゼンたちは明日の出発に備えて街の市場で買い出しをしていた。エルヴィンが食料を、グリゼルダが消耗品を、フェリクスが魔道具の材料を選んでいる。ミラベルは薬草を吟味し、ザガンは全体の予算を管理していた。
ヴァルゼンは——荷物持ちだった。
(重い。これ以上は無理。僕の腕は飾りじゃないんですが。いや、戦闘面では飾りなんですが)
両腕に袋を抱え、背中にもリュックを背負い、よたよたと歩いている姿は、どう見ても「史上最凶の魔王」ではなかった。
そのとき——肌が、刺された。
(……っ!?)
比喩ではない。魔力感知が、物理的な痛みに変換されるほどの異常を捉えた。腕の荷物が全てずり落ちた。
「陛下?」
ザガンが即座に振り返った。
「ど、どうかされましたか」
ヴァルゼンは答えられなかった。
全身の毛が逆立っている。呼吸が浅くなる。心臓が早鐘を打つ。これは恐怖だ——しかし、いつもの「怖い」とは質が違った。
いつもの恐怖は、目の前の脅威に対するものだ。強い魔物、怒った冒険者、エルヴィンの熱い視線。対象がある。方向がある。逃げ道がある。
しかし今の感覚は——方向がなかった。
空間そのものが、おかしい。
(何だ、これ。魔力の流れが——途切れている? いや、途切れているんじゃない。……消えている)
ヴァルゼンの魔力感知が、街の南東方向——市壁の外、約二キロ先の農地から、異常な信号を受け取っていた。
魔力がない。
あるべき場所に、あるべきものが、ない。
魔力の流れを川に例えるなら——そこだけ川底が消えている。水が、虚空に落ちていく。
「ザガン」
声が震えていた。いつものことだが、今回は震え方が違った。
「南東の方角に——何かおかしいところがありませんか」
ザガンの琥珀色の瞳が鋭くなった。
「……私には、何も感じ取れません。しかし陛下がそうおっしゃるのであれば——」
「人がいます」
ヴァルゼンの口から、思いもよらない言葉が出た。
「南東の農地に。少なくとも——何人かの住民が。あそこに近づいたら駄目だ」
自分でも何を言っているのかわからなかった。しかし感覚が叫んでいた。あの「消えている」場所に人がいる。そして「消えている」範囲が——広がっている。
「エルヴィン!」
ヴァルゼンが叫んだ。市場の向こうで食料を選んでいたエルヴィンが振り返る。
「ヴァルゼン? どうした!」
「南東の農地——住民を避難させてください! 今すぐ!」
声が裏返っていた。必死だった。理由を説明する余裕はなかった。
しかしエルヴィンは——一瞬も迷わなかった。
「わかった!」
聖剣の勇者は、食料の袋を放り出して走り出した。理由は聞かない。ヴァルゼンが言うのだから、何かあるのだ。それだけで十分だった。
「グリゼルダ! ミラベル! 来い!」
「はっ!」
「は、はい!」
三人が市場を駆け抜け、南門に向かう。
フェリクスはすでに行動を開始していた。モノクルを展開し、魔力の流れを解析している。
「……魔王殿。南東の方角に、僕の解析では何の異常も検出されません。しかし——」
「フェリクス、お願いです。今は信じてください」
「ええ、信じますとも」
フェリクスが薄く笑った。
「あなたの感知が僕の解析を上回った前例は——残念ながら一度や二度ではありませんからね」
フェリクスも走り出した。ギルド支部への緊急連絡に向かったのだ。
ザガンがヴァルゼンの傍に残った。
「陛下。具体的に何を感じ取っておられますか」
「魔力が消えています。南東方向、市壁の外二キロ付近。範囲は——わからないけど、広がっている」
「魔力が……消えている」
ザガンの表情が、初めて——強張った。
四百年を生きた老臣が、動揺を見せた。それ自体が、異常事態の深刻さを物語っていた。
「陛下。それはもしや——」
「ザガン?」
「いえ……まだ確証はありません。しかし、先代の時代に——似た報告を読んだことがあります」
ザガンの声は低く、慎重だった。
「参りましょう。現場の近くまで」
二人は南門を抜け、農地に向かった。
街道を走る——というより、ヴァルゼンがよたよたと走り、ザガンがそれに合わせて歩調を落としている。体力のなさが如実に出ている場面だったが、今はそれどころではなかった。
南東の農地が見えてきた。
麦畑が広がり、農家が点在する、穏やかな風景——のはずだった。
しかしヴァルゼンの魔力感知は、悲鳴を上げていた。
(ある。あそこだ。あの麦畑の——真ん中に)
目には見えない。耳にも聞こえない。鼻でも感じない。
しかし魔力感知だけが——明確に捉えていた。
麦畑の一角に、直径二十メートルほどの「空白」がある。魔力の流れが、そこだけ消失している。そして——その空白は、少しずつ、確実に広がっていた。
「エルヴィン!」
先に到着していたエルヴィンたちが、農家の住民を避難させている最中だった。
「ヴァルゼン! 住民は全員連れ出した! 周囲の農家も含めて三十人ほど——全員無事だ!」
「あ、ありがとう——」
「で、何がある!? 敵か!? 俺が斬る!」
「いや、そうじゃなくて——」
ヴァルゼンは麦畑の一角を指さした。
「あそこに、何か——おかしなものがあります。近づかないでください。絶対に」
エルヴィンが目を凝らした。グリゼルダも、ミラベルも。
「……何も見えないが」
「見えないんです。でも——ある」
ヴァルゼンの声は切迫していた。パニックではない。いつもの怯えとは違う、もっと根源的な——本能の警報だった。
そのとき——麦畑の一角が、静かに消えた。
音もなく。光もなく。ただ——そこにあったはずの麦が、土が、空気が、消滅した。
直径一メートルほどの真円が、地面に穿たれていた。穴ではない。穴ならば底がある。しかしそこには——何もなかった。闇ですらない。「存在しない」という状態そのものが、目に見える形で現れていた。
「なっ——!」
エルヴィンが聖剣を抜いた。
「何だ、あれは!?」
グリゼルダが盾を構え、ミラベルがヴァルゼンの前に出た。
しかしヴァルゼンは——それが「戦って倒せるもの」ではないことを、直感的に理解していた。
(敵じゃない。これは——現象だ。魔力の流れが断たれた場所で、存在そのものが消えていく——)
「近づかないで!」
ヴァルゼンが叫んだ。
「あの中に入ったら——消えます。物も、人も、何もかも」
全員が足を止めた。
消滅の円は——ゆっくりと、しかし確実に、拡大していた。
フェリクスが駆けつけたのはその直後だった。ギルドの緊急班を引き連れて。
「……これは」
モノクルの解析結果を見たフェリクスの顔が、蒼白になった。
「魔力が——存在しない。ゼロではない。『ない』のだ。測定値がゼロなのではなく、測定する対象そのものが消滅している」
「フェリクス。わかりますか、これが何なのか」
「いいえ。僕の知識にはこの現象に合致する記録がない。しかし——」
フェリクスがヴァルゼンを見た。
「あなたは知っていた。いや——感じていた。僕の解析が何も捉えられなかった段階で、あなただけがこの異常を察知し、住民の避難を指示した」
(知っていたんじゃない。ただ「嫌な感じ」がしただけだ。怖かっただけだ)
しかしその「怖かっただけ」の判断が——三十人の住民を救った。
消滅の円は、避難した農家のあった場所にまで拡大していた。もし避難が十分遅れていれば——住民たちは、跡形もなく消えていただろう。
ギルドの緊急班が周辺を封鎖した。フェリクスが観測機器を展開し、記録を開始した。ザガンは黙って消滅の円を見つめ——その琥珀色の瞳に、深い憂慮の色を浮かべていた。
避難した住民たちが、ヴァルゼンの周りに集まっていた。
「あんたが……あんたが避難を指示してくれたのか」
農夫の一人が、震える声で言った。
「あの畑は俺の家の目の前だった。もし避難していなかったら——」
「ヴァルゼン殿。あなたは、あれが起きることを知っていたのですか」
「い、いえ、知っていたわけでは——」
「あの方は未来を見通されたのだ」
エルヴィンが、静かに——しかし絶対的な確信を込めて言った。
「俺たちには何も見えなかった。聞こえなかった。感じなかった。だがヴァルゼンだけが、あの異変を——起きる前に察知した。それは、未来を見通す力以外の何物でもない」
(違う。未来なんて見えない。ただ魔力の流れがおかしいと感じただけで——)
しかし結果が全てを語っていた。
住民たちが次々と頭を下げた。涙を流す者もいた。子供を抱きしめた母親が、嗚咽混じりに「ありがとうございます」と繰り返した。
ヴァルゼンは——何も言えなかった。
ただ、目の前の消滅の円を見つめていた。
(あれは何だ。あの現象は——何なんだ)
魔力が消える。存在が消える。戦っても斬っても倒せない。
直感が、告げていた。
これは——始まりに過ぎない、と。
日が暮れた。
消滅の円は、直径三メートルほどで拡大を停止した。封鎖は継続され、ギルドとフェリクスによる観測が続いている。
宿に戻ったヴァルゼンは、窓辺に座って南東の方角を見つめていた。
背後でザガンが静かに言った。
「陛下。今日のご判断で、三十名の命が救われました」
「……たまたまです」
「たまたまであろうと、結果は変わりません」
ザガンの声が、わずかに重くなった。
「しかし——あの現象については、私にも心当たりがある。まだ確証はありませんが、先代の時代に記録された報告と酷似しています」
「先代の時代にも?」
「ええ。ただし当時は——先代魔王が対処されたと聞いています。詳細は、次の機会に」
ザガンの表情は、いつもの穏やかさの下に——初めて見る深刻さを湛えていた。
ヴァルゼンは窓の外を見た。
ルーゼンの街並みは夜の灯火に照らされて、平和そのものに見えた。
しかし南東の方角に——見えない空白が、静かに存在し続けている。
(怖い。あれは、今までで一番怖い)
魔物とは違う。敵意がない。殺意がない。ただ「消える」だけ。
だからこそ——底知れない恐怖だった。
(でも)
ヴァルゼンは、自分の手を見つめた。
(僕には、感じることはできた。あれが来ることを——僕だけが、わかった)
それが何を意味するのか。自分に何ができるのか。
わからない。何もわからない。
しかし——肌に残るあの「痛み」の記憶だけは、鮮烈だった。
「未来を見通す魔王」——その評価がルーゼンの街に広がっていることを、ヴァルゼンはまだ知らなかった。




