後方で震えていたら「全体を俯瞰する司令塔」と称賛された(二回目)
後方で震えていたら「全体を俯瞰する司令塔」と称賛された(二回目)
決戦の朝が来た。
空は快晴。風は渓谷の奥から手前に吹いている。ザガンが「崩落の粉塵を後方に流す理想的な風向きです」と言った。つまり条件は整っている。
二十八人が配置についた。
主力突撃隊——エルヴィンとグリゼルダが先頭に立ち、赤毛のリーダーの部隊と寡黙な剣士の部隊が続く。彼らの任務はグラナドール本体の陽動だ。
崩落魔術班——フェリクスと老魔術師が率いる魔術師チーム。岩壁の崩落点に集中砲火を加え、岩蜥蜴の潜伏区画を埋める。
遊撃・救護班——双子姉の遊撃パーティとミラベルの救護チーム。前線の支援と負傷者の搬送を担う。
そして——本陣。
ヴァルゼンとザガンが、渓谷を見渡す高台に立っている。
立っている、というのは語弊がある。ヴァルゼンは高台の岩に腰を下ろし、膝を抱えて震えていた。
(怖い。怖い怖い怖い。今日、誰かが死ぬかもしれない。いや、僕が死ぬかもしれない。逃げたい。逃げたいけど逃げたら皆が——)
「陛下。全部隊、配置完了です」
ザガンが淡々と報告した。
「開始の合図をお願いいたします」
(合図。また僕が。あの旗を振るだけでいい。それだけでいいんだ。できる。やれる。たぶん)
ヴァルゼンは震える手で旗を掲げた。
深呼吸。
振り下ろす。
作戦が始まった。
主力突撃隊が渓谷に突入する。エルヴィンの聖剣が朝日を受けて閃光を放った。グリゼルダの大剣が岩蜥蜴の先遣隊を薙ぎ払う。
轟音。金属と岩がぶつかる音。魔法の炸裂音。叫び声。
ヴァルゼンは高台から、その全てを見ていた。見るしかなかった。
(エルヴィンが前に出すぎている。グリゼルダが左に寄りすぎている。赤毛のリーダーの部隊が——遅い。岩蜥蜴に足止めされている)
戦況は刻一刻と変わる。ヴァルゼンの魔力感知が、渓谷全体の生命の動きを捉えていた。本人にとっては「なんとなく全体がぼんやり見える」程度の感覚だ。しかしその「ぼんやり」は、フェリクスの探査魔法すら凌駕する精度を持っていた。
「ザガン。あの、赤毛さんの部隊が——なんか、押されてる気がする」
「左翼ですな。了解です。遊撃班に援護を指示します」
ザガンが即座に伝令を飛ばした。
「あと、フェリクスさんの方——もうちょっと右の岩壁の方が、嫌な感じがする」
「崩落点の微調整ですな。伝えます」
ヴァルゼンの「嫌な感じ」が、次々とザガンの指示に変換されていく。
ヴァルゼン自身は戦術のことなど何もわかっていない。ただ「あっちが危なそう」「こっちに何かいそう」という漠然とした感覚を、ザガンに伝えているだけだ。
しかしザガンは、その断片的な情報を完璧な戦術指示に翻訳した。四百年の参謀経験が、主君の直感を作戦に落とし込む。
十五分後。
「フェリクス、今だ!」
ザガンの合図で、魔術班が一斉に岩壁へ砲撃を開始した。
轟音と共に、渓谷東側の岩壁が崩れ落ちた。
数千トンの岩石が岩蜥蜴の潜伏区画を呑み込む。粉塵が舞い上がり、風に乗って渓谷の外に流されていく。ザガンの読み通りだ。
潜伏していた岩蜥蜴の大半が、一瞬で戦闘不能になった。
「グラナドール本体に突撃!」
エルヴィンの咆哮が渓谷に轟いた。
護衛を失ったグラナドールは、主力突撃隊の集中攻撃に晒された。エルヴィンの聖剣が岩甲の隙間——腹部に深々と突き刺さる。グリゼルダの大剣が首筋を斬りつける。
十分間の激闘の末——グラナドールは倒れた。
渓谷に歓声が響き渡った。
「やったぞーーーー!」
赤毛のリーダーが拳を突き上げた。
「負傷者報告!」
ミラベルが叫んだ。各部隊から報告が上がってくる。
「主力突撃隊——軽傷三名! 重傷なし!」
「魔術班——負傷なし!」
「遊撃班——軽傷一名!」
「救護班——負傷なし!」
軽傷四名。重傷者なし。死者なし。
二十八人全員が生きている。
「うおおおお! 全員生還だ!」
エルヴィンが聖剣を天に掲げた。
「ヴァルゼンの作戦通りだ! 一人も欠けなかった!」
(僕の作戦じゃないけどな。ザガンの作戦だ。僕はここで座って震えていただけだ)
高台の本陣に、各部隊のリーダーが報告に駆けつけてきた。
ヴァルゼンは岩の上に座ったまま動けなかった。緊張と恐怖で全身が硬直し、立ち上がる気力が残っていなかった。
「指揮官殿」
老魔術師が高台を上ってきた。
「お見事でした。あの崩落のタイミング、左翼への援護指示、崩落点の微調整——全て完璧でした」
(全部ザガンです。僕は「嫌な感じ」と「右の方」と言っただけです)
「しかも、ここで——」
老魔術師が高台から渓谷を見下ろした。
「終始この位置から動かず、全体を俯瞰して指揮されていた。前線に出たがる指揮官が多い中、最後まで司令塔に徹する胆力。これは、なかなかできることではない」
(前線に出たがらないのは怖いからです。司令塔に徹したんじゃなくて、ここから動けなかっただけです)
「ああ、わかる」
赤毛のリーダーが腕を組んで頷いた。
「俺なんか途中で我慢できなくなって前に出ちまったからな。あの人は最後まで全体を見てた。だから左翼の危機にも即座に対応できたんだ」
「全体を俯瞰する司令塔。まさに、その通りですな」
寡黙な剣士が、珍しく饒舌に言った。
(司令塔。前にも言われたことがある気がする。二回目だ。もうパターンになっている。後方で震えていると『司令塔』と呼ばれるパターンが)
「ヴァルゼン!」
エルヴィンが高台に駆け上がってきた。全身に岩蜥蜴の体液と土埃をまとい、しかし目は輝いている。
「完璧だった! お前の指揮のおかげで、全員生きて帰れる!」
「あの、それはザガンが——」
「ザガンが優秀なのは、お前が選んだ参謀だからだ。参謀の手柄は指揮官の手柄。そうだろう、ザガン」
「仰る通りです」
ザガンが涼しい顔で頷いた。
(共犯だ。この二人、完全に共犯だ)
「ヴァルゼン様——!」
ミラベルが息を切らせて高台に上ってきた。
「ご無事で——よかった——」
涙が溢れている。
「あ、うん、僕は何もしてないから——」
「何もしていないなんて。ずっとここで、全員のことを見守っていてくださったじゃないですか。一人も欠けさせないように、ずっと——」
(見守っていたんじゃなくて、怖くて凝視していただけだ。目が離せなかったのは心配だったからじゃなくて——いや、心配だったのは本当だけど——)
「フム。実に興味深いデータが取れた」
フェリクスが高台に上ってきた。手帳が三頁分埋まっている。
「魔王殿の指示——いや、指示とすら呼べない断片的な発言が、ザガンの翻訳を経て完璧な戦術になる。これは通常の指揮系統では説明できない。言語以前の次元で意思疎通している——いわば、参謀との意識共有だ」
(意識共有もリンクもしていない。「嫌な感じ」をザガンが忖度しているだけだ)
「素晴らしい戦いでございました、ヴァルゼン様」
グリゼルダが大剣の血を拭いながら、敬礼した。
「『怪我しない方法がいい』——あの言葉通りの結果になった。指揮官の言葉が、そのまま戦果になる。これ以上の指揮はありません」
(戦果になったのは皆が強いからです。僕の言葉は関係ありません)
夕暮れ時。
渓谷を出た二十八人の冒険者は、帰路についた。
ヴァルゼンはパーティの中央を歩きながら、ぼんやりと空を見上げていた。
(今日、誰も死ななかった。誰も重傷を負わなかった。それは——本当によかった)
それだけは、嘘偽りない本心だった。
「ヴァルゼン」
エルヴィンが隣に並んだ。
「今日のお前は、本当にすごかった。俺はお前を誇りに思う」
(誇りに思わないでくれ。そんな価値のある人間じゃない)
「……ありがとう、ございます」
かすれた声で答えた。
エルヴィンが満面の笑みを浮かべた。その笑顔が——眩しかった。
ヴァルゼンは視線を落とした。
(僕は、何もしていない。後方で震えていただけだ。でも——)
ふと、振り返った。
二十八人の冒険者が、夕陽の中を歩いている。全員が立っている。全員が笑っている。
(——全員が、生きている)
胸の奥が、じわりと熱くなった。
「全体を俯瞰する司令塔」。二回目のその称号は、ヴァルゼンにとって嬉しくもくすぐったくもない、ただ重いだけのものだった。
でも。
全員が生きているという事実だけは——軽くはなかった。




