「怪我しない方法がいい」と呟いたら「慈悲の将」と呼ばれた
「怪我しない方法がいい」と呟いたら「慈悲の将」と呼ばれた
渓谷入口に設営された臨時本陣で、作戦の立て直しが始まった。
岩蜥蜴の伏兵は予想の倍以上。加えてグラナドール本体は渓谷の最奥で健在だ。当初の挟撃作戦は白紙に戻さざるを得ない。
五パーティのリーダーと主要メンバーが集まり、地図を囲んでいる。
「正面からの力押しでいくしかないんじゃないか」
赤毛のリーダーが言った。
「岩蜥蜴を片端から潰して、数で押し切る。二十八人いれば——」
「犠牲は避けられませんな」
白鬚の老魔術師が渋い顔をした。
「五十匹以上の岩蜥蜴を正面突破すれば、少なくとも数名は重傷を負う。最悪、死者が出る」
「それは——仕方ないだろう。これだけの規模の討伐だ」
赤毛の声に、苦さが滲んでいた。仕方ない。冒険者にとって、それは日常の一部だ。命を賭けて戦い、時に仲間を失う。それが冒険者という生き方だ。
しかし——
「……怪我しない方法がいいです」
ヴァルゼンの口から、ぽろりと言葉がこぼれた。
独り言だった。本陣の隅で膝を抱えて座っていたヴァルゼンが、誰に言うでもなく呟いた本音だ。
誰も怪我してほしくない。誰も死んでほしくない。それはヴァルゼンの偽りない気持ちだった。戦術的な判断ではなく、ただの祈りだ。
しかし——その呟きは、本陣の全員に聞こえていた。
沈黙が落ちた。
赤毛のリーダーが、はっとした顔でヴァルゼンを見た。
「……怪我しない方法」
白鬚の老魔術師が、深く目を閉じた。
「指揮官殿は——犠牲を前提とした作戦を、認めないということか」
(認めないとかそういう大層な話じゃなくて、単純に怖いんです。誰かが血を流すのを見るのが怖いんです)
しかし老魔術師の目には、敬意の光が宿っていた。
「二十八人を率いて大型魔獣を討伐する。それだけの規模の作戦で『怪我しない方法がいい』と——それを真顔で言える指揮官を、私は初めて見た」
「いや、あの——」
「普通なら『多少の犠牲は仕方ない』と言う。実際、私もそう言った。だが指揮官殿は——一人の犠牲も許容しないと」
(許容するとかしないとか、そういう次元じゃなくて——)
「……慈悲の将だ」
寡黙な剣士が、低い声で呟いた。
全員がその言葉に頷いた。
「慈悲の将か。言い得て妙だな」
赤毛のリーダーが腕を組んだ。
「よし、指揮官殿の意に沿おう。犠牲を出さない作戦を——練り直そうじゃないか」
(練り直す? そんなことできるんですか? 五十匹以上の岩蜥蜴を相手に?)
「陛下の仰る通りです」
ザガンが立ち上がった。その顔には——かすかな笑みがあった。
「犠牲を前提としない作戦。難題ですが、不可能ではありません」
ザガンが地図を広げ直し、新たな線を引き始めた。
「渓谷の東側、岩壁の上部に——崩落しやすい地層があります。ここに魔術で衝撃を加えれば、岩蜥蜴の潜伏区画を丸ごと埋められる」
「なるほど。落石で岩蜥蜴を封じ、その間にグラナドール本体を叩くわけか」
フェリクスがモノクルを光らせた。
「岩壁の地質構成を解析すれば、最適な崩落点を特定できます。僕にやらせてください」
「ただし、崩落のタイミングを誤れば味方ごと巻き込む」
グリゼルダが鋭く指摘した。
「精密な連携が必要だ。前線と魔術班の呼吸が合わなければ——」
「それこそ、指揮官の仕事だろう」
赤毛のリーダーがヴァルゼンを見た。
(僕の仕事。精密な連携の指揮。最も苦手な分野だ)
ザガンが再びヴァルゼンの傍に寄った。
「陛下。タイミングの判断は——陛下の『勘』にお任せしてよろしいですか」
(勘。さっき渓谷で使ったやつだ。あれは勘というか、嫌な感じがしただけなんだけど——)
「……がんばります」
蚊の鳴くような声だった。
「おお!」
赤毛のリーダーが拳を握った。
「『がんばります』か。あれだけの実力者が、それだけ謙虚な姿勢で臨む。やはり器が違う」
(器じゃない。本当にがんばらないとまずいから正直に言っただけだ)
新たな作戦は三時間で固まった。
ザガンの立案、フェリクスの地質解析、グリゼルダの前線指揮、エルヴィンの突撃力——全てが有機的に組み合わさった作戦だ。
各パーティのリーダーたちも、それぞれの得意分野で知恵を出した。赤毛のリーダーは罠の設置を、双子姉は牽制射撃の配置を、寡黙な剣士は退路の確保を、老魔術師は広域魔法の砲撃タイミングを提案した。
それら全てを統合したのはザガンだ。
しかし全員が、この作戦の起点はヴァルゼンの一言だと信じていた。
「怪我しない方法がいい」——その一言が、作戦の根本方針を変えた。犠牲を前提とする戦術から、全員生還を前提とする戦術へ。
「いい作戦だ」
エルヴィンが地図を見つめて満足げに頷いた。
「ヴァルゼンの一言で、全員の意識が変わった。これが指揮官というものだ」
(変えてない。呟いただけだ。独り言が聞こえちゃっただけだ)
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが胸の前で手を組んでいた。
「怪我しない方法がいいと仰った時のヴァルゼン様のお顔、私——忘れません」
(どんな顔をしていたんだろう。たぶん怯えた顔だ。いつもの、情けない顔だ)
「あれほど自然に、全員の命を大切にできる方を——私は他に知りません」
ミラベルの翡翠色の瞳が潤んでいる。また泣きそうだ。
「フム」
フェリクスが手帳を閉じた。
「魔王殿。あなたの一言は、戦術を変えたのではない。人の心を変えたんだ。あの場にいた全員が——『犠牲は仕方ない』と思っていた。それを、たった一言で覆した」
(覆していません。本当に何も考えていません)
「しかも無意識にやっている。計算ではなく、本心からの一言だったからこそ、全員の心に刺さった。——やはり、常人の思考回路とは根本的に異なるんだ」
フェリクスのモノクルが光を反射した。その奥の瞳には、知的な興奮が渦巻いていた。
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが甲冑の胸に拳を当てて、礼をした。
「犠牲を出さぬ作戦。必ず成功させます。この剣にかけて」
(その剣が頼りです。本当に。僕には剣も魔法もないので、グリゼルダさんの剣だけが頼りです)
「陛下」
ザガンが穏やかに言った。
「『怪我しない方法がいい』——先代も先々代も、一度も口にしなかった言葉です」
琥珀色の瞳が、静かに笑っていた。
「だからこそ、あなたに仕えているのですよ」
(重い。全部重い。でも——)
ヴァルゼンは、自分の手を見た。何の力もない、ただの手だ。
(僕にできるのは、怖がることだけだ。怖がって、逃げて、皆を巻き込んで——)
でも。
(もし——僕が怖がることで、誰かが助かるなら)
その考えは、すぐに消えた。気恥ずかしくて、直視できなかったから。
明日の決戦を前に、ヴァルゼンは小さくため息をついた。
「慈悲の将」という呼び名が、すでに二十八人の間に広まっていることを、彼はまだ知らなかった。




