パニックで「逃げろ!」と叫んだら全軍が救われた
パニックで「逃げろ!」と叫んだら全軍が救われた
作戦当日。北の渓谷。
朝靄が岩壁にまとわりつき、視界は十メートル先がぼやけている。二十八人の冒険者が三つの部隊に分かれ、渓谷の入口で最終確認を行っていた。
ヴァルゼンは本陣——渓谷を一望できる高台に配置されていた。傍にはザガンとフェリクス。エルヴィンとグリゼルダは主力部隊の先頭に立っている。ミラベルは後方の救護班に合流していた。
(高台。指揮官は高台にいるものだとザガンが言った。見晴らしがいいからだと。でも僕が高台にいるのは、前線が怖いからだ。それだけだ)
「陛下。準備は整いました」
ザガンが静かに告げた。
「各部隊に進軍の合図を」
(合図。僕が合図を出す。二十八人が僕の合図で動く。責任が——重い。重すぎる)
ヴァルゼンは震える手で合図の旗を掲げた。
振り下ろす。
三部隊が一斉に動き始めた。
主力部隊が渓谷の正面から進入する。遊撃部隊が東の岩壁を迂回する。援護部隊が西の高台に展開する。
ザガンの立てた作戦通りだ。
「今のところ順調ですな」
フェリクスがモノクルで魔力の流れを走査しながら呟いた。
「グラナドールは渓谷奥の営巣地にいる。子分の岩蜥蜴は——散開しているが、予想の範囲内だ」
ヴァルゼンは黙って頷いた。頷くしかできない。作戦の進行を見守る以外に、自分にできることなど何もない。
十分が経過した。
主力部隊が渓谷の中腹に差しかかった頃——
ヴァルゼンの背筋に、冷たいものが走った。
(——なんだ、この感じ)
魔力感知。魔王の血統が持つ、唯一の才能。ヴァルゼン自身は「なんか嫌な感じがする」程度の認識しかないそれが、全力で警鐘を鳴らしていた。
渓谷の左右——岩壁の影に、何かがいる。
岩蜥蜴ではない。もっと大きい。もっと多い。
(待って。待って待って待って。ザガンの偵察報告では岩蜥蜴は二十匹のはずだ。でもこの気配は——四十? 五十? もっと?)
嫌な汗が噴き出した。
フェリクスのモノクルが反応していない。岩壁の鉱物が魔力探査を遮蔽しているのだ。しかしヴァルゼンの魔力感知は——もっと原始的で、もっと根源的な感覚だった。鉱物の壁など関係なく、生命の魔力を嗅ぎ取る。
(岩壁の中に潜んでいる。待ち伏せだ。主力部隊が中腹に入った瞬間に、左右から——)
理解した瞬間、身体が動いた。
「逃げろーーーーーっ!!」
裏返った絶叫が渓谷に反響した。
ヴァルゼンの人生で最大の声量だった。喉が裂けるかと思った。指揮官としての判断ではない。純粋な恐怖の叫びだ。仲間が死ぬ。みんな死ぬ。その恐怖が、全ての理性を吹き飛ばして声になった。
二十八人が一斉に反応した。
一瞬の躊躇もなかった。指揮官の絶叫——それは最優先の命令だ。
主力部隊が後退を開始した。
その直後——
岩壁が砕けた。
左右の壁から、無数の岩蜥蜴が雪崩れ出た。五十匹以上。偵察情報の倍以上の数が、岩壁の内部に潜伏していたのだ。
もし主力部隊がさらに五メートル進んでいたら、完全な包囲殲滅だった。
しかし——間に合った。
ヴァルゼンの絶叫が、ぎりぎりのところで全員を退避させた。
「全部隊、再編成! 渓谷入口まで後退!」
エルヴィンが即座に聖剣を抜き、殿を務めた。グリゼルダが大剣を振るって岩蜥蜴の先頭集団を薙ぎ払う。
「後退支援! 広域障壁を展開します!」
フェリクスが高台から防御魔法を放った。青白い光の壁が渓谷の中腹に立ち上がり、岩蜥蜴の追撃を一時的に遮断する。
三分後。
全員が渓谷入口まで後退した。負傷者はいない。一人も欠けていない。
「全員無事だ!」
赤毛のリーダーが叫んだ。
「信じられねえ……あと五秒遅かったら、主力は全滅してた」
双子姉が青ざめた顔で頷いた。
「あの岩壁の中に潜伏していたなんて、探査魔法でも検知できなかったのに——」
「指揮官殿は、どうやって気づいたんだ?」
寡黙な剣士が、初めて口を開いた。
全員の視線がヴァルゼンに集中した。
ヴァルゼンは高台で膝をついていた。絶叫で喉が潰れ、恐怖で全身が震え、立っていられなかった。
(どうやって気づいたって——なんか嫌な感じがしただけだ。説明のしようがない)
「……勘、です」
かすれた声で答えた。
沈黙が流れた。
そして——爆発した。
「勘だと? あの精度の危機察知を『勘』と?」
白鬚の老魔術師が震える声で言った。
「探査魔法を遮蔽する岩壁の向こう側の伏兵を、勘で察知した。しかも——全軍が包囲される寸前のタイミングで。一秒の狂いもなく」
「あれが魔王の感覚か……人間には理解できない次元だな」
「しかも叫び声一つで全軍を動かした。二十八人が一瞬で反応した。あれは——信頼されているからこそできることだ」
(信頼じゃなくて、声が裏返るほど必死だったから本能的に逃げたんだと思います)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが駆け寄ってきた。聖剣に岩蜥蜴の体液がこびりついている。
「お前の判断で全員が助かった。さすがだ——いや、さすがという言葉では足りない」
金髪の勇者の碧眼が、真っ直ぐにヴァルゼンを見つめていた。
「お前がいなければ、俺たちは死んでいた」
(判断じゃない。恐怖だ。怖くて叫んだだけだ。でも——みんなが無事で、よかった)
その安堵だけは本物だった。
「ヴァルゼン様っ!」
ミラベルが泣きながら駆けてきた。
「お怪我は——お声が——」
「あ、大丈夫です。ちょっと喉が——」
「回復魔法をかけますっ。どうか動かないで——」
温かい光がヴァルゼンの喉を包んだ。潰れかけた声帯が修復されていく。
「ヴァルゼン様……声が枯れるほどに叫ばれたんですね。みんなを守るために……」
ミラベルの涙が止まらない。
(叫んだのは怖かったからです。本当にそれだけなんです)
しかし——もう誰も、その説明を信じてくれないことを、ヴァルゼンは知っていた。
「陛下」
ザガンが静かに歩み寄った。
「偵察の不備は、私の責任です。申し訳ございません」
「いや、あの岩壁の内部に伏兵がいるなんて、誰にもわからなかったよ。ザガンのせいじゃない」
「……」
ザガンの尾が、微かに揺れた。
「さすがは陛下」
その一言の重みが、いつもと少し違った気がした。
ヴァルゼンは高台に座り込んだまま、渓谷を見下ろした。
二十八人の冒険者が、全員無事で立っている。
(僕は何もしていない。怖くて叫んだだけだ)
でも——全員が生きている。
それだけで、胸の奥が温かくなった。




