先代魔王は「孤独」だった——参謀の回想が意味するもの
先代魔王は「孤独」だった——参謀の回想が意味するもの
バルトの関所町まであと半日という距離で、パーティは最後の野営をしていた。
夕食後、エルヴィンが「明日は町だ、今夜は飲むぞ!」と宣言し、荷物からワインを取り出した。グリゼルダが目を輝かせて杯を受け取り、フェリクスが「ほどほどにしてください」と言いながら自分も注ぎ、ミラベルが一口で顔を赤くした。
ヴァルゼンは端の方で、薄めたワインをちびちびと飲んでいた。
ザガンは——珍しく、少し多めに飲んでいた。
(この人、今日はいつもと違う。何かを考え込んでいる顔をしている)
エルヴィンとグリゼルダが腕相撲を始め、フェリクスがそれを「筋力と技術の相関分析」として記録し始めた頃——ザガンが、ヴァルゼンの隣に座った。
「陛下。少し昔話をしてもよろしいですか」
「……はい」
ワインのせいか、ザガンの声はいつもより柔らかかった。
「先代魔王のことです」
ヴァルゼンは杯を持つ手を止めた。
先代魔王。ヴァルゼンが魔王位を継ぐ前の、本物の魔王。人間との大戦を戦い抜いた、比類なき武勇の持ち主。
ヴァルゼンが玉座に座らされる原因を作った人物。
「先代は——強い方でした」
ザガンの琥珀色の瞳が、焚き火を見つめている。遠い記憶に焦点を合わせるように、わずかに細められていた。
「剣を取れば千の兵を薙ぎ倒し、魔法を放てば山が動いた。魔族の歴史上、最も武勇に優れた魔王だったと——私は今でも思っています」
「……すごい人だったんですね」
(比較するのもおこがましいが、僕とは天と地ほどの差がある。当然だけど)
「ええ。すごい方でした」
ザガンが杯を傾けた。琥珀色の液体が喉を通る。
「しかし——」
声が、少し低くなった。
「あの方は、孤独でした」
「孤独?」
「力が強すぎたのです。誰も追いつけなかった。配下の将軍たちは先代を恐れ、敬い、しかし——理解しようとはしなかった。理解できるはずがないと、最初から諦めていた」
焚き火が爆ぜた。
「玉座の間で、あの方はいつも一人でした。報告を聞き、命令を下し、軍を動かす。全てを一人で背負い、一人で決断した。参謀の私ですら——あの方の本心を聞いたことは、ほとんどありません」
ザガンの尾が、力なく垂れ下がっていた。いつもは感情を制御しているはずの尾が、今は隠せていない。
「大戦の末期、あの方は変わり始めました」
「変わった?」
「怒りが——消えたのです。敵を倒す怒りでも、味方を守る怒りでもない。全ての感情が消え、ただ機械のように戦い続けるようになった」
ザガンの声が、微かに震えた。
「ある夜、私は先代の部屋を訪ねました。報告があったのですが——扉の向こうから、声が聞こえました」
「声?」
「独り言です。先代が——誰もいない部屋で、呟いていました」
ザガンが目を閉じた。
「『この世界は——剣では守れぬ』」
沈黙が落ちた。
焚き火の音だけが、夜の静寂を埋めている。
「……それは、どういう意味ですか」
「わかりません。当時の私にも、わかりませんでした。先代はその後も何も説明されず——まもなく崩御されました」
ザガンが目を開けた。琥珀色の瞳に、焚き火の光が揺れている。
「今になって思うのです。先代は——何かを知っていたのではないかと」
「何かを?」
「この世界に迫る脅威。剣や魔法では太刀打ちできない何か。先代はそれを察知していた。しかし、あの方の周りには——相談できる者がいなかった」
(それは……)
「力で全てを解決してきた方だからこそ、力では解決できない問題に直面したとき、孤独だった。そして私は——その孤独に、気づけなかった」
ザガンの手が、杯を握りしめていた。
「四百年の中で、最も悔いている夜です」
ヴァルゼンは何も言えなかった。
先代魔王の孤独。力があるがゆえの孤立。そして——「この世界は剣では守れぬ」という言葉。
(僕にはわからない。先代が何を知っていたのか、何を恐れていたのか。でも——)
「ザガン」
「はい」
「あなたが僕に仕えている理由——少しだけ、わかった気がします」
ザガンが驚いたように目を見開いた。
「先代は孤独だった。力が強すぎて、誰も傍にいられなかった。でも僕は——」
ヴァルゼンは苦笑した。
「弱いから。弱すぎて、一人じゃ何もできないから。だから——皆が傍にいてくれる」
「……陛下」
「あなたは『今度こそ孤独にしない』って——そう思っているんですか」
ザガンの尾が、大きく揺れた。
一瞬、琥珀色の瞳に光るものが見えた——気がした。焚き火の反射かもしれない。
「……さすがは陛下」
その声は、皮肉の響きを完全に失っていた。
「やはり——あなたには全て見えている」
(見えてない。勘で言っただけだ。この人の表情を見て、なんとなくそう思っただけだ)
ザガンが杯を飲み干した。そして静かに立ち上がった。
「先代が果たせなかったことを——陛下は果たされるでしょう。私は、そう信じています」
「何を果たすんですか」
「それは——これからの旅が教えてくれるはずです」
(また綺麗にまとめた。でも——)
ヴァルゼンは焚き火を見つめた。
先代魔王の言葉が、頭から離れなかった。
「この世界は——剣では守れぬ」。
(僕には剣も魔法もない。だから関係のない話だ。——のはずなのに、なぜか引っかかる)
ちくりとした不安。胸の奥に刺さった、小さな棘のようなもの。
何かが——遠くで、静かに崩れ始めているような。
気のせいだ。きっと気のせいだ。
「ヴァルゼンー! こっち来て飲め! グリゼルダに腕相撲で負けた! 三連敗だ!」
エルヴィンの陽気な叫びが、夜の空気を破った。
「エルヴィン殿、女性に腕相撲を三回挑んで三回負けるのは、勇者としていかがなものかと」
「うるさいフェリクス! 四回目で勝つ!」
「ヴァルゼン様ー、お酒のおかわりはいかがですかー……?」
ミラベルが頬を赤く染めて手を振っている。
ヴァルゼンは立ち上がり、仲間たちの輪に戻った。
胸の棘は——まだ、消えていなかった。




