元魔王軍参謀が膝をついた。もう逃げ場がない
元魔王軍参謀が膝をついた。もう逃げ場がない
焚き火の前で片膝をついた長身の魔族——ザガンの姿は、ヴァルゼンの知る「魔王軍の幹部」の印象そのものだった。
威厳。風格。数百年を生きた者だけが纏う、揺るぎない存在感。
旧魔王軍の参謀章が、焚き火の光を受けて鈍く輝いている。
(参謀本部の筆頭参謀。先代の時代から仕えていた幹部中の幹部。なぜ、こんな人が——)
「陛下」
ザガンが頭を垂れたまま、静かに続けた。
「お噂は、かねがね。先の一件——魔族の軍勢を一言で鎮めたとの報告、各地の同胞から届いております」
(噂がこの人のところまで届いている。もう手遅れだ)
「長きにわたる放浪をお許しください。先代崩御の後、魔王軍の混乱の中で陛下のお行方を見失い、捜索を続けておりました」
(捜索? 僕を? なぜ? 僕は魔王軍にいた時、誰からも相手にされていなかったのに——)
「パーティメンバーの方々にもご挨拶を」
ザガンが顔を上げ、視線をエルヴィンたちに向けた。
パーティの面々は臨戦態勢を崩していなかった。エルヴィンは聖剣の柄を握ったまま、碧眼でザガンを見据えている。グリゼルダの剣先がザガンの喉元を向いている。フェリクスの指先に詠唱の光が灯っている。
しかしザガンは、そのいずれにも動じなかった。
「聖剣の勇者エルヴィン殿、銀狼のグリゼルダ殿、万象の解剖者フェリクス殿——そして聖都の癒し手ミラベル殿。陛下のお傍に、これほどの方々がおられるとは」
(全員の名前と二つ名を知っている。この人、本物の参謀だ。情報収集が完璧すぎる)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが低い声で問いかけた。
「この男——お前の部下か?」
「い、いや、その……」
ヴァルゼンは必死に記憶を掘り返した。魔王時代、参謀本部の幹部と会った記憶は——ない。玉座に座らされていただけの自分に、幹部が直接会いに来ることはなかった。将軍たちが全てを取り仕切り、ヴァルゼンはただの飾りだった。
「知りません」
正直に答えた。
パーティの全員が目を見開いた。
ザガンも、わずかに目を瞠った。
(しまった。知らないって言っちゃった。変に思われた? 自分の軍の幹部を知らないなんて——)
「……ふっ」
エルヴィンが笑った。
「そうだろうな。お前は頂点にいた。末端の将すら把握し切れないほどの大軍を率いていたのだ。一人一人の顔など覚えていないのが当然だ」
(末端じゃない。筆頭参謀だ。最高幹部だ。覚えていないのは僕が飾りだったからだ)
「さすがは陛下」
ザガンが穏やかに言った。
ヴァルゼンは思わず、その琥珀色の瞳を見た。
皮肉なのか本心なのか、判別がつかなかった。ただ、その声音には——どこか温かいものが含まれていた。
「率いる軍勢に執着しない。個の名に囚われない。器が大きいとは、まさにこのこと」
(器が大きいんじゃなくて、存在感がなかっただけです)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが聖剣から手を離した。
「この男の処遇、お前が決めろ」
(え、僕が?)
「お前の元部下だ。お前にしか判断できない」
(判断って言われても。会ったことすらない人の処遇をどう判断すれば——)
ヴァルゼンはザガンを見た。
片膝をついた長身の魔族は、静かにヴァルゼンの言葉を待っていた。その姿勢には媚びがなかった。卑屈さもなかった。ただ、主君の判断を待つ臣下の矜持だけがあった。
(この人は——怖い人だ。多分、僕の弱さにも気づいている。でも……)
ザガンの尾が、微かに揺れていた。矢尻型の尾の先端が、左右にゆっくりと振れている。
(緊張している? この人が?)
それを見た瞬間、ヴァルゼンの中で何かが緩んだ。
怖い。確かに怖い。だが、この人も——何かを賭けてここに来ている。
「……あの」
ヴァルゼンは、情けないほど小さな声で言った。
「立ってください。膝、痛いでしょう」
沈黙。
焚き火が爆ぜた。
「……は」
ザガンの表情が、ほんの一瞬だけ——崩れた。
琥珀色の瞳が揺れ、口元が僅かに歪んだ。笑ったのか、泣きそうになったのか、ヴァルゼンには判別がつかなかった。
「陛下は、変わらないのですね」
「え?」
「即位式の日と同じだ。玉座の前で膝をついた兵たちに、最初におっしゃったのが『立ってください、冷たいでしょう』でした」
(覚えてない。でも言いそうだ。僕なら確実にそう言う)
「——仰せのままに」
ザガンが立ち上がった。背筋を正した姿は、焚き火の前でもなお威厳があった。
「では、改めて」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを見据えた。
「この身、この知恵、この残りの命。全て陛下にお預けいたします。どうか——お傍に置いていただけますか」
(断れない。この目で、この声で言われたら、断れるわけがない)
「ヴァルゼン、どうする」
エルヴィンの声が、穏やかに響いた。
ヴァルゼンは、パーティの全員の顔を見渡した。
エルヴィンは満足げに頷いている。グリゼルダは剣を収めていた。フェリクスは手帳に猛烈に書き込んでいた。ミラベルは既に泣いていた。
(なぜミラベルが泣いているんだ。泣く場面じゃないだろう。いや、この人はいつも泣いているけど)
「……わかりました」
ヴァルゼンは、観念したように言った。
「よろしく、お願いします」
「ありがたき幸せ」
ザガンが深く頭を下げた。
エルヴィンが「よし!」と拳を突き上げ、グリゼルダが無言で頷き、フェリクスが手帳にもう一行書き足し、ミラベルが鼻をすすった。
パーティが五人になった。
ヴァルゼンだけが、焚き火の前で途方に暮れていた。
(逃げ場が、また一つ減った)
しかし不思議なことに、その感覚は——嫌ではなかった。
嫌ではないことが、一番怖かった。




