撤退した魔族兵が「あの魔王は本物だ」と証言して回っている。助けて
撤退した魔族兵が「あの魔王は本物だ」と証言して回っている。助けて
それは、翌日の朝食の席で判明した。
街道沿いの小さな宿場町。窓際の席で固いパンをちぎっていたヴァルゼンの耳に、隣のテーブルの冒険者たちの会話が飛び込んできた。
「聞いたか? 東の街道で魔族の残党が壊滅したらしいぞ」
「壊滅? 討伐隊が出たのか」
「いや、それが——魔王が一言叫んだだけで、百人以上の兵が膝をついて投降したんだと」
パンが喉に詰まった。
ヴァルゼンは激しく咳き込んだ。ミラベルが慌てて水を差し出し、背中をさすってくれた。
(ちょっと待って。ちょっと待ってくれ。なぜもう噂になっている? まだ一日しか経っていないのに?)
「投降した魔族兵が各地で証言して回ってるらしい。『あの魔王は本物だ。声だけで魂まで震えた』って」
「魂まで? 大袈裟だろ」
「いや、証言した魔族兵、全員が同じこと言ってるんだと。『あの方こそ真の魔王だ』って涙流しながら語るらしいぞ」
(涙? 涙まで流してるの? なぜ? 僕が叫んだのは「やめてください」の五文字だけなのに?)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが向かいの席で、パンを豪快にかじりながら穏やかに言った。
「聞こえたか?」
「……聞こえました」
「ふっ。お前の一言が、こうして世界を変え始めている。感慨深いな」
(感慨深くない。全く感慨深くない。恐ろしい。ただひたすら恐ろしい)
「興味深いですね」
フェリクスがパンには一切手をつけず、手帳に何かを書き込んでいた。インクの減りが異常に早い。
「証言者が複数いる場合、通常は証言内容にばらつきが出ます。しかし今回は全員が一致している。つまり、魔王殿の『王威』は個人差なく均一に作用する——」
「フェリクス」
「はい?」
「朝ご飯、食べてください」
「……ああ、そうでした」
フェリクスは手帳を閉じたが、三十秒後にはまた開いていた。ヴァルゼンは見なかったことにした。
問題は、噂の広がり方だった。
宿を出て街道を歩き始めると、すれ違う旅人や行商人の会話に、やたらと「魔王」という単語が混じるようになった。
「魔王が勇者パーティにいるんだってよ」
「はぁ? 魔王と勇者が一緒に?」
「しかもその魔王、声だけで軍隊を従えるらしい」
(「声だけで軍隊を従える」。事実だけ切り取ると確かにそうなるけれども。文脈を添えてくれ。「恐怖で泣き叫んだら偶然うまくいった」という文脈を)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが隣を歩きながら、静かに告げた。
「このまま噂が広がれば、遠からず各地の残存魔王軍にも届くでしょう。二つの反応が予想されます」
「二つ?」
「帰順するか、敵対するか。いずれにせよ——動きがあるはずです」
(どっちも困る。帰順されても困るし、敵対されたらもっと困る)
「しかし」とグリゼルダは蒼灰色の瞳を細めた。「あの王威を目の当たりにした者たちは、おそらく帰順を選ぶでしょう。問題は、直接あの場にいなかった者たちです」
「……ですよね」
「ご安心ください。この剣にかけて、いかなる敵もヴァルゼン様のお傍には近づけさせません」
(安心できない。そもそも敵も味方も僕に近づいてほしくない。静かに暮らしたいだけなんだ)
昼過ぎに立ち寄った村では、もはや噂は「伝説」の域に達していた。
酒場に入った瞬間、店内が静まり返った。全ての視線がヴァルゼンに集中する。
(この空気。この空気は駄目なやつだ)
「あの……何か?」
ヴァルゼンが恐る恐る声をかけると、カウンターの主人が震える声で言った。
「も、もしや——『一言の魔王』様でいらっしゃいますか」
(二つ名がついてる! いつの間に二つ名がついたんだ!)
「い、いえ、僕はそんな——」
「やはり! お噂通りの謙虚なお方だ!」
店内がどよめいた。冒険者たちが椅子から立ち上がり、ある者は敬礼し、ある者は道を空けた。
「一言だぞ、一言で百人の魔族を……」
「いや、俺が聞いた話だと三百人だったぞ」
「嘘つけ。五百人だろ」
(増えてる! 会うたびに数が増えている! 明日には千人になってそうだ!)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが満面の笑みで肩を叩いた。その笑顔が眩しすぎて直視できない。
「世界がお前を正しく評価し始めたな。俺は嬉しいぞ」
「正しく評価……」
(正しくない。全くもって正しくない。でもこの人にそう言っても無駄なのは、もう充分わかっている)
ヴァルゼンは深くため息をつき、酒場の隅の席に腰を下ろした。
テーブルの上に突っ伏して、小さく呟いた。
「……助けて」
その呟きは誰にも聞こえなかった。
聞こえていたとしても、おそらく「世界を背負う覚悟の重さ」とか何とか解釈されるのだろうが。
窓の外では、旅の吟遊詩人が早くも「一言の魔王」の歌を作り始めていた。
一番の歌詞は壮大で英雄的で、事実とは完全に別物だった。
(……もう本当に、助けて)




