「やめてください!」と叫んだら軍勢が膝をついた
「やめてください!」と叫んだら軍勢が膝をついた
それは、ガルドの集落を発って半日後のことだった。
街道が森を抜け、開けた丘陵地帯に出た瞬間——ヴァルゼンの魔力感知が悲鳴を上げた。
(嫌な感じがする。しかもこれは——多い。すごく多い)
「み、皆さん、止まってください」
パーティが足を止めた。四人の視線がヴァルゼンに集中する。
「前方に——大勢います。魔族です。たぶん——五十人以上」
「五十?」
エルヴィンの表情が引き締まった。聖剣の柄に手をかける。
「魔獣の群れではなく?」
「魔族です。それも——武装している感じが……」
フェリクスがモノクルを調整し、前方に目を凝らした。
「確認できました。丘の向こう側に陣形を組んだ集団がいます。軍旗が見える——」
フェリクスの声が固くなった。
「旧魔王軍の旗です。残存部隊でしょう。規模はおよそ六十名。装備は中級。指揮官クラスが三名」
ヴァルゼンの血の気が引いた。
(残存魔王軍の部隊。しかも六十人。前に遭遇した小部隊とは規模が全然違う)
「面白い。向こうもこちらに気づいたようだ」
フェリクスの言葉通り、丘の向こうから魔族の兵士たちが姿を現し始めた。
黒い軽鎧に身を包んだ魔族の兵士たちが、整然とした隊列を組んで近づいてくる。先頭には三人の指揮官がいた。鎧の装飾からして、元魔王軍の中隊長クラスだろう。
その中の一人——赤い角を持つ壮年の魔族が、ヴァルゼンを見て足を止めた。
「あれは——」
赤角の魔族の目が見開かれた。
「魔王家の——ヴァルゼン様か!?」
(知ってるんだ。やっぱり知ってるんだ)
兵士たちにどよめきが走った。
「魔王様?」
「あれが——裏切り者の——」
「違う、あの方は本物の魔王家の血筋だ」
六十人の魔族兵の間で、意見が割れているのが遠目にもわかった。一部は敵意を、一部は困惑を、一部は畏怖を滲ませている。
赤角の指揮官が一歩前に出た。
「ヴァルゼン様。お久しぶりです。私は第七中隊長のバルガスと申します。大戦末期、本隊より離脱し、以来この地で残存部隊を率いてまいりました」
「は、はい……」
「単刀直入に伺います。あなたは——何故、人間と共にいるのですか」
バルガスの声には、敵意というよりも純粋な困惑があった。魔王家の末裔が人間のパーティに加わっている——その事実を、どう解釈すればいいのかわからないのだろう。
「それは——」
ヴァルゼンが答えようとした時、兵士の一人が声を上げた。
「バルガス隊長! あの中にいるのは勇者エルヴィンだ! 聖剣の勇者、四天王を二人も倒した!」
兵士たちの間に、明確な殺気が走った。
「勇者だと——」
「我らの同胞を殺した勇者が——」
「魔王様を捕虜にしているのではないか!?」
六十人の魔族兵が、一斉に武器を構えた。
剣が鞘から抜かれる音、弓が軋む音、魔法陣が展開される音が重なる。丘陵地帯の空気が、一気に戦場のそれに変わった。
ヴァルゼンの全身が凍りついた。
(六十人。六十人の武装した魔族。これは——)
隣でエルヴィンが聖剣を抜いた。白銀の刃が日光を反射して輝く。
「ヴァルゼン、下がれ。俺たちが前に——」
グリゼルダが大剣を構えた。フェリクスが防御魔法の術式を展開し始めた。ミラベルが回復魔法の詠唱準備に入った。
四人の実力があれば、六十人の中隊を相手にしても勝てるかもしれない。
だが——。
(だめだ)
ヴァルゼンの頭に、あの集落の光景が浮かんだ。
ルナの笑顔。ガルドの穏やかな瞳。子供たちの歓声。
この六十人の魔族にも、ああいう家族がいるかもしれない。帰りを待っている誰かがいるかもしれない。
(戦ったら、死ぬ人が出る。魔族の兵士たちが死ぬ。エルヴィンたちだって怪我をするかもしれない)
考えるより先に、身体が動いた。
パーティの前に飛び出した。
両手を広げて、六十人の魔族の軍勢と仲間たちの間に立った。
「やめてください!」
叫んだ。
ヴァルゼンの人生で、これほど大きな声を出したことはなかった。
恐怖で裏返った、情けない叫び声。必死で、切実で、魂の底からの懇願。
「戦わないでください! 誰も傷つかないでください! お願いです、やめてください!」
その声は、丘陵地帯に響き渡った。
そして——。
起きた。
ヴァルゼンの魔王家の血統に眠る、唯一にして最大の力。
本人すら知らない、無自覚の力。
魔力の波動が、声に乗って放射された。
それは攻撃ではなかった。威圧でもなかった。ただ——魔王の血統が持つ、魔族に対する根源的な影響力。「従え」という命令ではなく、「止まれ」という祈りに近い何か。
声を聞いた六十人の魔族兵の身体が、一斉に硬直した。
膝が、折れた。
最前列の兵士から順に、まるで波が引くように——六十人全員が、片膝をついた。
武器が地面に落ちた。弓が力を失い、魔法陣が消えた。
指揮官のバルガスも、膝をついていた。赤い角が地面に向けられ、その顔には——驚愕と、畏怖と、そして確信があった。
「……これは」
バルガスの声が震えていた。
「これが——魔王の御声か」
沈黙が、丘陵地帯を支配した。
六十人の魔族兵が膝をつき、動けずにいる。風の音だけが聞こえた。
ヴァルゼンは——両手を広げたまま、動けなかった。
(え?)
(え? 何が起きた?)
(なんで全員膝をついてるの?)
振り返ると、パーティの四人も固まっていた。
エルヴィンが聖剣を握ったまま、口を半開きにしている。グリゼルダの大剣を持つ手が震えている。フェリクスのペンが手帳の上で止まっている。ミラベルは——両手で口を覆って、目を見開いている。
「ヴァルゼン」
エルヴィンの声が、掠れていた。
「お前——今、何をした」
「え——何も——叫んだだけで——」
「叫んだだけ、だと?」
エルヴィンの碧い目が、かつてないほど大きく見開かれていた。
「一言だぞ。たった一言で——六十人の軍勢が、膝をついた」
(僕が一番びっくりしてるんですけど!?)
バルガスが、膝をついたまま顔を上げた。
「魔王様。我々は——あなた様の御声に、身体が勝手に従いました。これは、命令への服従ではありません」
赤角の魔族の目には、涙が浮かんでいた。
「あの声は——『やめてください』と仰った。魔王が——民に、頭を下げたのです。『傷つかないでください』と。あのような声を——あのような祈りを、魔王家の方から聞いたのは、初めてです」
(祈りとかじゃない。怖くて叫んだだけだ)
「バルガス隊長——」
「我が部隊は、この場を退きます」
バルガスが立ち上がり、兵士たちに指示を出した。
「武器を収めよ。我々の魔王は——戦いを望んでおられない」
兵士たちが次々と立ち上がり、武器を鞘に収め始めた。その動きは整然としていたが、多くの兵士の目が赤くなっていた。
「ヴァルゼン様」
バルガスが最後に振り返った。
「我々は、各地に散った同胞にこの日のことを伝えます。魔王は——生きておられる。そして、誰よりも民のことを想っておられると」
(伝えないでほしい。本当に伝えないでほしい)
魔族の部隊が丘の向こうに消えていくのを、ヴァルゼンは呆然と見送った。
足が震えていた。膝が笑っている。
気づけばその場に座り込んでいた。
「ヴァ、ヴァルゼン! 大丈夫か!?」
エルヴィンが駆け寄ってきた。
「大丈夫——じゃないかもしれません。足が、動かなくて——」
「当然だ。あれだけの力を使えば——」
「力なんて使ってません。叫んだだけです。本当に叫んだだけなんです」
「……謙虚にもほどがあるぞ」
(謙虚じゃない! 本当に何もしてないんだ!)
グリゼルダが膝をついた。
地面に膝をつき、大剣を横に置いて、頭を垂れた。
「……私も、動けませんでした」
「え?」
「あの御声を聞いた瞬間——身体が、止まった。魔族だけではない。私の中の、戦士としての本能が——あの声に従った」
蒼灰色の瞳は、畏怖で震えていた。
「ヴァルゼン様。あれは——人の域を超えています」
(超えてない。僕の声はいつも裏返るだけだ)
「記録、しなければ」
フェリクスが震える手で手帳を開いた。
「一言。たった一言で、六十名の武装した魔族兵を——無力化。いや、無力化ではない。心服させた。これは威圧術ではない。威圧術は恐怖で相手を縛る。だがあの声は——」
フェリクスの声も震えていた。
「恐怖ではなかった。あの声を聞いた時、僕は——ただ、膝をつきたくなった。理由は、わからない」
(僕にもわからない)
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが泣いていた。いつもの泣き方ではない。静かに、大粒の涙をこぼしていた。
「あの声は——お優しさでした。『傷つかないで』という——あの言葉は、魔族の兵士たちにも、私たちにも、等しく向けられていた」
「当たり前じゃないですか。誰にも怪我してほしくなかったんです」
「……それが。それこそが——」
ミラベルは言葉を詰まらせた。
パーティが落ち着きを取り戻すまで、しばらく時間がかかった。
ヴァルゼンは丘の草の上に座ったまま、自分の手を見つめていた。
(何が起きたんだ)
(僕はただ叫んだだけだ。怖くて、必死で、戦ってほしくなくて——)
(それだけなのに、なぜ——)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが隣に座った。
碧い目は、もう落ち着いていた。ただし、その奥に宿る感情は、これまでのどの瞬間よりも深かった。
「お前は、やはり——とんでもない男だ」
「……とんでもなくないです」
「いや。とんでもない。一言で軍勢を退けた。歴史上、そんなことができた者がいるか?」
(できてない。偶然だ。何かの間違いだ。たぶん魔王家の血統がどうにかしたんだ。僕じゃない)
でも——あの瞬間、パーティの前に飛び出した時の感情は、本物だった。
誰にも死んでほしくなかった。誰にも傷ついてほしくなかった。
それだけは——嘘じゃなかった。
「帰ろう。今日はもう十分だ」
エルヴィンが立ち上がり、手を差し伸べた。
ヴァルゼンはその手を取って、よろよろと立ち上がった。
足はまだ震えていた。心臓もまだ早い。
でも——エルヴィンの手は温かかった。
(僕は、何者なんだろう)
その問いに、まだ答えは出なかった。
丘陵地帯を後にするパーティの背後で、風が草を揺らしていた。
六十人の魔族兵が膝をついた場所には、無数の足跡と、地面に落とされた武器の痕だけが残されていた。
それが——後に「一言で軍勢を退けた魔王」と呼ばれる伝説の、始まりだった。




