残存魔王軍と遭遇した。「魔王……様?」って言わないで
残存魔王軍と遭遇した。「魔王……様?」って言わないで
異変を感じたのは、午後の街道を歩いている時だった。
ヴァルゼンの腹の底が、ぐっと冷えた。
いつもの胃痛とは違う。もっと根源的な——本能が警告を発するような冷たさだ。前髪の下の小さな角が、かすかに疼いている。
(なんだ、この感覚——魔力? それも、複数?)
「ヴァルゼン様?」
ミラベルが心配そうに声をかけた。ヴァルゼンが急に立ち止まったからだ。
「あ、いえ……その——」
「どうした、ヴァルゼン」
エルヴィンが振り返った。碧い目が真剣だ。
言うべきか迷った。「嫌な予感がする」なんて、また深読みされるに決まっている。でも、この感覚を無視していい気がしなかった。
「……前方に、何かいる気がします。魔力を持った——複数の存在が」
パーティに緊張が走った。
「何人?」
グリゼルダが即座に問うた。声色が変わっている。日常の武人から、戦場の指揮官の声に切り替わった。
「えっと……十……いや、十五くらい? 正確にはわかりません。ただ、その——」
「魔族の魔力ですね」
フェリクスがモノクルの焦点を合わせていた。薄く目を細める。
「確認しました。前方約三百メートル。魔族の集団反応。武装しています。……残存魔王軍でしょう」
残存魔王軍。
大戦終結後も降伏を拒み、各地に散った魔王軍の残党。ヴァルゼンにとっては、かつての——名目上の配下たちだ。
(まずい。これは——本当にまずい)
胃が捩れるような感覚が襲った。残存魔王軍と遭遇するということは、つまり——。
(僕の顔を知ってる奴がいるかもしれない。いや、いるだろう。魔王の顔は、一応は知られている。もし声をかけられたら——)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが聖剣の柄に手を置いた。金色の髪が風になびいている。
「どうする? 迂回するか、それとも——」
「いえ、あの、迂回した方が——」
「なるほど。正面突破か」
(真逆だ!)
「さすがだ。相手が十五人程度なら、俺たちなら問題ない。だがお前が正面を選ぶということは、それ以上の理由があるんだな?」
(ない! 僕は迂回と言った! 日本語が通じていない!)
しかし、もう遅かった。エルヴィンは既に聖剣を抜いていた。グリゼルダが大剣を肩に担ぎ、フェリクスが魔術の準備を始めている。ミラベルが回復魔法の詠唱態勢に入った。
パーティは——進軍し始めた。
(待って! 本当に待って!)
林の向こうに、彼らがいた。
魔族の小部隊。粗末な鎧を纏い、武器を携えた十数名の兵士たち。野営の最中だったらしく、火を囲んで休息していた。
勇者パーティの接近に気づき、即座に臨戦態勢をとった魔族兵たちの目が——ヴァルゼンを捉えた。
空気が、凍った。
「ま——」
先頭に立っていた魔族の隊長格の男が、目を見開いた。逞しい体躯に粗末な鎧。額に立派な角を持つ、中年の魔族だった。
「魔王……様?」
(言わないで! 頼むからその呼び方をしないで!)
だが、声は周囲に響いていた。
隊長の声を聞いた他の魔族兵たちが、次々にヴァルゼンの方を見た。
「嘘だろ——魔王様?」
「あの角……確かに、王家の——」
「なぜ人間と一緒に——」
魔族兵たちの間に動揺が広がった。武器を構えていた手が下がり、膝を折ろうとする者すらいた。
ヴァルゼンの背中を、パーティメンバーの視線が突き刺した。
エルヴィンの視線。グリゼルダの視線。フェリクスの視線。ミラベルの視線。
四つの視線が、確かに「聞こえた」のだ。
——魔王。
もちろん、パーティの全員がヴァルゼンを「魔王」だと認識していた。最初からそうだった。エルヴィンが「史上最凶の魔王」と信じ、グリゼルダが「格の違う存在」と畏怖し、フェリクスが「完璧な偽装をする知略家」と分析し、ミラベルが「孤独な魔王」と共感していた。
でも——それは仲間内の認識だった。外部から「魔王様」と呼ばれるのは、意味が違う。
敵側から、現役の兵士から、「魔王様」と呼ばれた。
つまり——正真正銘、本物の魔王なのだ。
「おい」
隊長格の魔族が、混乱した顔でヴァルゼンを見た。
「あんた——本当に魔王様なのか? 大戦後に行方不明になった、あのヴァルゼン魔王——」
「あ、あの——」
「なぜ人間どもの中にいる! まさか捕虜に——」
「違います! 捕虜じゃ——」
「ならば——裏切ったのか?」
隊長の目に、怒りの火が灯った。
他の魔族兵たちにも動揺が怒りに変わりつつある空気が広がった。武器を再び構える者が現れた。
ヴァルゼンの頭が、ぐるぐると回転していた。
(どうする。どうすればいい。ここで何を言えば——)
裏切り者と呼ばれた。正確に言えば、裏切り者なのだろう。魔王軍に居場所がなくて、勇者パーティに拾われて、成り行きで一緒にいるのだから。
でも——。
「落ち着いて」
ヴァルゼンの口から、思いがけず安定した声が出た。
自分でも驚いた。震えてもいなかった。
「僕は——裏切ったんじゃ、ありません。戦争は終わったんです。もう戦う必要はないんです」
隊長が歯噛みした。
「終わっていない! 我々は——」
「終わってるんです」
ヴァルゼンの声が、静かに遮った。
「あなたたちが何のために戦っているのか、僕にはわかります。居場所がないんでしょう? 戦争が終わって、帰る場所がなくて——だから、まだ戦い続けるしかないと思っている」
隊長の目が揺れた。他の兵士たちも、武器を持つ手が僅かに下がった。
ヴァルゼン自身が驚いていた。何を言っているんだ、僕は。こんなことを言う予定じゃなかった。でも——この人たちの顔を見たら、自分と同じだと思ってしまった。
居場所がない。帰る場所がない。だから、しがみつくしかない。
「僕も——同じだったから」
その言葉を最後に、ヴァルゼンの口は閉じた。
沈黙が落ちた。
隊長が——武器を、下ろした。
「……撤退する」
「隊長!」
「黙れ。勇者パーティ相手に勝ち目はねえ。それに——」
隊長がヴァルゼンを見た。複雑な感情が入り混じった目だった。
「あんたが魔王なら——命令に従う義務がある。撤退だ」
魔族の小部隊は、武器を収め、林の奥へと消えていった。
戦闘は——起きなかった。
ヴァルゼンは、自分の手が微かに震えていることに気づいた。今になって、恐怖が追いついてきた。
(怖かった……。何が起きてもおかしくなかった……)
「ヴァルゼン」
振り返ると、エルヴィンがいた。
碧い目が——これまで見たことがないほど、真剣だった。
「お前——本当に、魔王なんだな」
エルヴィンの声が、低く響いた。
それは確認ではなかった。感嘆だった。
「ああ……知ってはいた。最初から信じていた。だがこうして、お前の元部下から『魔王様』と呼ばれるのを聞くと——」
エルヴィンが拳を握りしめた。
「改めて思い知らされる。お前がどれほどの存在なのか」
(どれほどでもない! あの人たちだって「この人が魔王?」って顔してただろ!)
パーティの全員が、ヴァルゼンを見ていた。
何かが——決定的に変わろうとしている。
ヴァルゼンは、その予感に身体が冷えるのを感じながら、何も言えずに立ち尽くしていた。




