「お辛いのですね」——いえ、今辛いのは会話が噛み合わないことです
「お辛いのですね」——いえ、今辛いのは会話が噛み合わないことです
その夜の野営で、事件は起きた。
事件と言っても、魔物が襲ってきたとか盗賊に遭遇したとかではない。もっとずっと厄介なことだ。
ミラベルが、ヴァルゼンの隣に座ったのだ。
「夜番、お疲れ様です」
「あ、いえ、まだ始まったばかりなので……」
焚き火の番はヴァルゼンの当番だった。戦闘では役に立てないから、せめてこういうことは率先してやる。エルヴィンは寝袋の中で豪快ないびきをかいている。グリゼルダは木に背を預けて仮眠中だが、物音がすれば瞬時に起きるだろう。フェリクスは——テントの中で手帳の明かりが漏れている。まだ書いてるのか。
「眠れないんですか?」
「少し、考え事をしていて」
ミラベルが焚き火の炎を見つめた。揺れる光が、翡翠色の瞳を琥珀色に染めている。
「ヴァルゼン様のことを」
(僕のこと?)
「昨日の行商人の方を助けた時の、ヴァルゼン様のお顔。あの表情が——ずっと頭から離れなくて」
(どんな顔してたんだろう。たぶん普通に心配してる顔だと思うけど)
「あの時のヴァルゼン様は、魔王ではなかったんです」
ヴァルゼンの心臓が跳ねた。
(バ、バレた? 最弱だってバレた?)
「ただ一人の、心優しい青年でした」
(……バレてなかった。違う意味だった)
「でも——そのすぐ後に、また魔王の顔に戻られた」
(戻ってない! ずっと同じ顔だ! 僕に魔王の顔はない!)
「きっと、素のご自分を見せることが——怖いのですね」
ミラベルの声が、静かに沈んだ。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「ヴァルゼン様。一つ、聞いてもいいですか」
「は、はい。何でしょう」
「今——お辛いのですね」
唐突だった。あまりにも唐突な問いかけに、ヴァルゼンは一瞬固まった。
「え? 辛い……?」
「はい。いつもお辛そうに見えるのです。笑っていらっしゃる時でも、その奥に——途方もない重荷を感じます」
(重荷は確かにある。誤解が雪だるま式に膨らんでいく重荷が。でもそれは自業自得というか——)
「あの、ミラベルさん。僕は別にそんな——」
「そうやって、弱さを見せまいとなさるのですね」
(見せまいとしてない! 今まさに見せようとしたのに!)
「無理をなさらないでください。魔王という立場が、どれほどの孤独を強いるものか——私には、想像することしかできません。でも」
ミラベルが、ヴァルゼンの方を向いた。翡翠色の瞳が、焚き火の光を映して揺れている。
「せめて、この場では。私の前では——魔王でなくていいのです」
(魔王じゃないんだ! 最初から魔王じゃないんだ! いや肩書きは魔王だけど中身は最弱のただの魔族で——ああもう、どこから訂正すればいいんだ!)
「み、ミラベルさん、あの——」
「はい」
「その……お気持ちはありがたいんですが、僕が辛いのはちょっと違う理由で——」
「違う理由」
ミラベルが、目を見開いた。そして、深く頷いた。
「……そうですよね。私ごときに語れるほど、浅い苦しみではないのですね」
(ごときじゃない! そしてもっと浅い! 底なしに浅い!)
「すみません、差し出がましいことを申しました」
「いえいえ、差し出がましくないです! というか、ミラベルさんの言葉は嬉しいんです。ただ、その——方向が、ちょっと……」
「方向」
ミラベルが小首を傾げた。大きすぎる帽子が少しずれた。
「ヴァルゼン様は——ご自分の苦しみの方向すら、他人に悟らせまいとなさるのですね」
(違う! 悟らせたい! 全部わかってほしい! でもわかってもらったら追い出される!)
もう何を言っても駄目だった。否定すればするほど、ミラベルの中で「辛さを隠す健気な魔王」像が補強されていく。この構造に、ヴァルゼンは完全に手詰まりだった。
「……すみません。うまく言えなくて」
「いいんです」
ミラベルが、穏やかに微笑んだ。涙の跡が頬に光っている。
「言葉にならないほどの想いを、一人で抱えてこられたのですから。無理に言葉にしなくていいのです」
(言葉にならないんじゃなくて、言葉にしたら全部崩壊するから言えないだけなんだ……)
沈黙が降りた。焚き火がゆらゆらと揺れて、二人の影を長く伸ばしている。
ミラベルは何も言わず、ただ隣にいた。
不思議なことに——会話は壊滅的に噛み合わなかったのに、その沈黙は温かかった。
ミラベルの横顔を見た。帽子の下で、少し目が赤い。僕のために泣いてくれたのだ。的外れだけど。盛大に的外れだけど。
でも、僕を心配してくれているのは本当なのだ。
その事実が、胸の奥に小さく沁みた。
「ミラベルさん」
「はい」
「ありがとうございます。その——気にかけてくださって」
「当然のことです」
ミラベルが首を振った。
「私は僧侶です。傷ついた方を放っておくことはできません。身体の傷も、心の傷も」
「僕の心は——」
「はい」
「——傷ついてるかどうか、自分でもよくわからないんです」
それは嘘じゃなかった。
傷ついているのか? 苦しんでいるのか? 自分でもわからない。嘘をつき続けていることは苦しい。でも、この仲間たちといられることは幸せだ。苦しさと幸せが同じ場所にある。どちらかだけを取り出すことができない。
「わからなくても、いいんです」
ミラベルの声が、夜風に乗って溶けた。
「わからないほど深い場所に、ヴァルゼン様の傷はあるのだと思います」
(やっぱり解釈が壮大になっていく……)
「いつか——ヴァルゼン様がその傷を見つめる時が来たら。その時は、必ず傍にいさせてください」
ミラベルの翡翠色の瞳が、まっすぐにヴァルゼンを見ていた。
泣きそうだった。ミラベルがではない。ヴァルゼンが。
会話は一ミリも噛み合わなかった。ミラベルが想像する「ヴァルゼンの苦しみ」は、実際の苦しみとは天と地ほどかけ離れている。
でも——「傍にいたい」と言ってくれたことだけは、真っ直ぐに胸に届いた。
「……はい。ありがとうございます」
ヴァルゼンは、それだけ言った。
翌朝。
「昨夜、ミラベルとヴァルゼンが焚き火の前で長く語り合っていましたね」
フェリクスが、朝食のパンをちぎりながら言った。
「記録によると、約四十五分間。途中十二分間の沈黙を挟んで——」
「記録してたのか!」
エルヴィンが目を丸くした。
「起きていたんですか、フェリクス」
「研究者に休息は不要です。さて、昨夜の会話の内容は聞き取れませんでしたが、ミラベルが泣いていたのは確認できました」
「ミラベルが泣いた?」
エルヴィンの表情が、一瞬で真剣になった。
「ヴァルゼン。お前——」
(まずい。泣かせたと思われてる)
「あ、いや、これは——」
「お前の孤独を、ミラベルに打ち明けたのか」
(打ち明けてない!)
「そうか……。お前でも、誰かに弱さを見せる時があるんだな」
エルヴィンの碧い目が潤んだ。
「ミラベルでよかった。あいつなら——お前の痛みを、受け止められる」
(受け止めるも何も、投げてない!)
「ヴァルゼン様の信頼に応えなければ」
ミラベルが、決意に満ちた表情でパンを握りしめていた。潰れている。パンが潰れている。
「私が——あの方の心の拠り所になるのです」
(拠り所にはなってるけど、理由が違う……!)
「なるほど」
フェリクスの手帳にペンが走った。
「魔王殿は情報開示の相手を慎重に選んでいる。ミラベルの共感力を高く評価し、自身の精神的負荷を分散させる戦略——極めて合理的ですね」
(戦略じゃない!)
「……ヴァルゼン様は、私にだけ心を開いてくださったのでしょうか」
ミラベルが、頬を赤く染めながら呟いた。
「ヴァルゼン、男だな」
グリゼルダがパンをかじりながら、ぼそりと言った。甲冑の向こうで、口角が微かに上がっている。
(何もしてない!)
朝食の席で、パーティの全員がヴァルゼンを温かい——しかし根本的に間違った理解で見つめていた。
ヴァルゼンは黙ってパンをかじった。
胃が痛い。
でも、不思議と——昨夜より、少し楽だった。




