怪我人が心配なだけなのに「美しい矛盾」と呼ばれた
怪我人が心配なだけなのに「美しい矛盾」と呼ばれた
街道の脇に、倒れている人がいた。
最初に気づいたのはヴァルゼンだった。正確に言えば、最初に「嫌な予感がした」のだ。腹の底がざわりと冷える感覚——危機察知と呼ぶには大げさだが、長年の臆病が磨いた勘が「何か」の存在を告げていた。
「あ、あの——道の脇に誰か……」
「何?」
エルヴィンが足を止めた。グリゼルダの目が即座に鋭くなり、腰の大剣に手が伸びる。フェリクスがモノクルの焦点を合わせた。
「人間ですね。一人。魔力反応なし。……ただの旅人のようです」
フェリクスの報告に、グリゼルダが僅かに力を抜いた。それでも警戒は解かない。歴戦の武人とはそういうものらしい。
近づいてみると、中年の行商人だった。荷車が横転し、荷物が散乱している。左足が不自然な角度に曲がっており、額にも血がにじんでいる。馬はいない。おそらく暴れて逃げたのだろう。
「おい、大丈夫か!」
エルヴィンが駆け寄り、行商人の肩を支えた。行商人がうっすらと目を開く。
「ああ……す、すまない……馬が急に暴れて……荷車ごと……」
「ミラベル!」
「はい!」
ミラベルが杖を翳し、淡い光が行商人の身体を包んだ。骨折した足が、ゆっくりと正しい形に戻っていく。額の傷も塞がっていく。
ヴァルゼンは、その光景を少し離れた場所から見守っていた。
治癒魔法の光が、行商人の顔から苦痛の歪みを消していく。先ほどまで白かった唇に、少しずつ色が戻っていく。
(……よかった。助かりそうだ)
心の底から、そう思った。
見知らぬ人だ。名前も知らない行商人だ。でも、痛そうにしている人を見ると胸が締めつけられる。魔王軍にいた頃から、そうだった。将軍たちが「敵の村を焼いた」と報告するたびに、玉座で顔が引きつるのを必死に隠していた。
治療が進むにつれ、行商人の表情が和らいでいくのを見て、ヴァルゼンは無意識に胸を撫で下ろしていた。
「ヴァルゼン様」
不意に、隣にミラベルの声があった。治療はグリゼルダに任せて、いつの間にか戻ってきていたらしい。
「え、あ、はい?」
「先ほどから、あの方をずっと見つめていらっしゃいましたね」
(見つめてた。確かに見つめてた。心配だったから)
「い、いえ、別に大したことでは——」
「ヴァルゼン様」
ミラベルの翡翠色の瞳が、まっすぐにヴァルゼンを見ていた。潤んでいる。もう潤んでいる。まだ何も言っていないのに。
「あの方が苦しんでいるのを見て、お辛そうでした」
「え? いや、そりゃ誰だって——」
「普通の魔王なら、人間一人が怪我をしたところで気にも留めないでしょう」
(普通の魔王って何だ。いや確かに先代魔王なら気にしなかっただろうけど、僕が心配したのはそういう話じゃなくて——)
「魔王でありながら、人の痛みに心を痛める」
ミラベルが、両手を胸の前で組んだ。祈るような仕草だった。
「なんて……美しい矛盾でしょう」
(美しくない! 矛盾でもない! ただの心配だ!)
ヴァルゼンの内心の絶叫とは裏腹に、ミラベルの目からは既に涙が一筋流れていた。
「かつて魔王軍を率い、人類と戦った方が——今は、道端の行商人の無事を祈っている。その瞳に宿る悲しみの意味が、私にはわかります」
(わかってない! 方向性は合ってるけど解釈が壮大すぎる!)
「あの方のために祈っていたのではないのです。あの方を傷つけた——戦争という業そのものを、悔いておられたのですね」
(そこまで深く考えてなかった!)
ミラベルの涙声が、周囲に染み渡るように広がった。エルヴィンが振り向いた。グリゼルダが眉を上げた。フェリクスが手帳を取り出した。
「何があった?」
エルヴィンが駆け戻ってきた。
「ヴァルゼン様が——名も知らぬ旅人の怪我を、ずっと案じておられたのです」
「……そうか」
エルヴィンの碧い目が、深い感慨に満ちた。
「やはり、お前はそういう奴だよ、ヴァルゼン。最凶の魔王でありながら、人一人の傷を見過ごせない。……ああ、だからお前は強いんだ」
(強くない! 見過ごせないのは弱いからだ! それに最凶じゃない!)
「興味深いですね」
フェリクスがモノクルの奥で目を細めた。手帳にペンが走っている。
「魔王殿は戦略的な観点から民間人を保護する姿勢を見せている。一見すると感情的な行動に見えますが、これは長期的な統治基盤の構築として完璧に合理的です。……やはり、全ての行動に計算がある」
(ない! 計算は一切ない! 心配しただけだ!)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが、静かに歩み寄ってきた。蒼灰色の瞳に、武人の敬意が宿っている。
「弱き者に向ける慈悲と、強き者に向ける威圧。その使い分けができる者を、私は他に知りません」
(威圧したことない! 一度もない! みんなが勝手に怖がってるだけだ!)
行商人の治療が終わり、意識がはっきり戻った。エルヴィンとグリゼルダが荷車を起こし、散乱した荷物を集めている。ミラベルが追加の治癒をかけている。フェリクスは——まだ手帳に何か書いている。
ヴァルゼンは荷物を拾うのを手伝おうと屈んだ。と、行商人がヴァルゼンの手を見て目を丸くした。
「あんた……その角。まさか、魔族かい?」
ヴァルゼンの小さな角が、前髪の隙間から覗いていた。
「あ、はい……すみません、驚かせてしまって——」
「魔族が、俺なんかを助けてくれるのか」
行商人の目に、戸惑いと、それから——微かな感謝が浮かんだ。
「……あんた、いい人だな」
その一言が、胸に刺さった。
「い、いえ、僕は何も……ミラベルが治療してくれただけで——」
「あんたの目を見りゃわかるよ。本気で心配してくれてたんだろ。……ありがとな」
行商人が去った後、ヴァルゼンはしばらく立ち尽くしていた。
嬉しかった。純粋に、嬉しかった。「いい人」と言われたことが。魔族だと知った上で、感謝してもらえたことが。
——ただし。
「見たか、あれを」
エルヴィンが感動に震える声で言った。
「行商人が——魔王を前にして、恐怖ではなく感謝を口にした。普通はありえない。だがヴァルゼンの前では、それが起こる。敵も味方も、あの男の前では武器を置いてしまうんだ」
(行商人は僕が魔王だって知らなかったからだと思う!)
「記録しました。『名もなき行商人、魔王の慈悲に触れ感涙す』」
(フェリクス、その記録は事実と三百歩くらいずれている!)
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが、まだ泣いていた。帽子のつばの下で涙を拭いながら、それでも微笑んでいた。
「あなたの優しさは——魔王という殻の中にあるからこそ、こんなにも眩しいのですね」
(殻じゃなくて本体なんですけど!)
パーティは再び歩き始めた。
ヴァルゼンの胸の中で、二つの感情がぶつかっていた。
一つは、見知らぬ人に「いい人」と言ってもらえた喜び。
もう一つは、その喜びすら「美しい矛盾」として消費されていく虚しさ。
(僕が人を心配するのは、矛盾じゃない。ただの——僕だ)
でも、それを口にする勇気は、やっぱりなかった。
「ヴァルゼン様、お顔色がすぐれませんが」
「……胃が痛いだけです」
「またですか。お身体、ご自愛ください。あなたのように重い責務を背負う方は——」
「はい……ありがとうございます……」
最弱の魔王は、今日も「美しい矛盾」を生きている。
ただ人を心配しただけなのに。




