世界を救っても、ゴブリンは変わらなかった。
世界を救っても、ゴブリンは変わらなかった。
魔王城の執務室──といっても大仰なものではなく、石造りの質素な部屋に机と椅子と書類棚を置いただけの空間だ。ヴァルゼンはそこで日々の業務をこなしていた。
全種族会議の議長という肩書きこそ仰々しいが、実際の仕事は書類の山との格闘である。各種族からの要望書、予算案、領土調停の書類、祭事の承認、魔力循環の定期報告。
地味だった。世界を救った魔王の日常としては、あまりにも地味だった。
だがヴァルゼンにとっては、これくらいが丁度良い。命の危機がない。剣を振るう必要がない。椅子に座って書類を読み、判を押すだけ。平和とは素晴らしい。
問題は一つだけあった。
「あの……この書類、隣の棚に戻しておいてもらえますか」
ヴァルゼンは足元にいるゴブリンに声をかけた。
魔王城には数体のゴブリンが雑用係として残っている。大戦前から住み着いていた個体で、ヴァルゼンが魔王に就任するよりも前からこの城にいる古参だ。
ゴブリンは書類を一瞥した。
そしてヴァルゼンを見た。
それから──舌打ちをした。
小さく、しかし明確な舌打ちだった。
「……あの、聞こえてますよね?」
ゴブリンは欠伸をした。
「お願いなんですが」
ゴブリンは背中を向けた。
「お願いします」
ゴブリンは壁の隅で丸くなり、寝始めた。
ヴァルゼンは長い長いため息をついた。
世界を救った魔王である。全種族会議の議長である。歴史書に「最凶にして最善の魔王」と記される存在である。
そのヴァルゼンが、配下のゴブリンに書類整理を頼んで舌打ちされている。
何も変わっていない。大戦前と寸分違わない。
「結局こうなるんだよな……」
自分で立ち上がり、自分で書類を棚に戻した。ゴブリンは壁の隅で鼾をかいていた。
そのとき、執務室の扉がノックもなしに開いた。
「よう、ヴァルゼン!」
エルヴィンだった。
相変わらず太陽のような笑顔で、相変わらず声が大きい。金髪が廊下の光を反射して眩しい。
「え、エルヴィン? なんで急に──」
「近くまで来たから寄った! 元気か?」
近くも何も、ここは魔族の領域の奥地にある魔王城だ。人間の国からは馬で三日かかる。「近く」の範囲が広すぎる。
エルヴィンは執務室に入るなり、壁の隅のゴブリンに気がついた。
ゴブリンはエルヴィンの気配を感じたのか、片目を開けてこちらを見た。
勇者と目が合った瞬間、ゴブリンは飛び起きて直立不動の姿勢をとった。小さな体を震わせながら。
「おう、元気にしてるか」
エルヴィンが気さくに声をかけると、ゴブリンは全力で頷いた。首がもげそうなほど頷いた。
「ヴァルゼンのことちゃんと手伝ってるか?」
ゴブリンは更に激しく頷いた。嘘である。
エルヴィンはそのやり取りを見て、感心したように頷いた。
「すごいな。ゴブリンすら心服させる器の大きさか。配下に分け隔てなく接して、ゴブリンが自発的に忠誠を誓うとは」
「舌打ちされたんですけど」
「舌打ち? ああ、親しみの表現だろ。俺の村でもじいさんが孫に舌打ちで愛情表現してたぞ」
「それは一般的じゃないと思います」
エルヴィンは笑いながら、窓辺に腰を下ろした。
執務室から見える景色は、かつて荒野だった土地に緑が戻りつつある様子が一望できる。虚淵が消えてから、世界は着実に回復していた。
「なあヴァルゼン」
「はい」
「今度また一緒に冒険しないか?」
ヴァルゼンの手が止まった。
「南の方に、古代遺跡が見つかったらしいんだ。なんでも、先代魔王の時代よりも古い文明の──」
「絶対に嫌です」
即答だった。
三百四十日の旅路で培った、全力の拒否だった。
「えー、なんでだよ!」
「なんでって……また命の危機に晒されるじゃないですか。また誤解が増えるじゃないですか。またゴブリン以下の戦闘力で修羅場を切り抜ける羽目になるじゃないですか」
「それがいいんだろ!」
「よくないです!」
ヴァルゼンは必死で首を横に振った。
だがエルヴィンの目はもう輝いている。この目になったら止まらないことを、ヴァルゼンは経験上知っていた。
「安心しろ、今回は気楽な旅だ。危険はほとんどない」
「エルヴィン、あなたがそう言って危険がなかったことは一度もありません」
「そうだったか?」
「一度もです」
エルヴィンは首を傾げた。本気で覚えていないらしい。
窓の外で、風が吹いた。
緑を取り戻しつつある大地の上を、穏やかな風が渡っていく。
ヴァルゼンは窓の外を見て、小さくため息をついた。
また始まるのだ。きっと。
平和は束の間で、この勇者がいる限り、退屈な日常は長くは続かない。
──まあ、それも悪くないのかもしれない。
その考えが脳裏をよぎった瞬間、ヴァルゼンは全力で否定した。
悪い。絶対に悪い。命が大事だ。平和が一番だ。
壁の隅で、ゴブリンがまた寝始めていた。
エルヴィンがいなくなった途端に。
世界を救っても、日常は変わらない。
ゴブリンに舐められ、勇者に振り回される。
それが魔王ヴァルゼンの、いつもの一日だった。




