ザガンの改革は、静かに始まった。
ザガンの改革は、静かに始まった。
魔族社会において、力は絶対だった。強い者が上に立ち、弱い者は従う。それが千年来の不文律であり、大戦を引き起こした根本的な思想でもあった。
ザガンはそれを変えようとしていた。
「我が王のように、力ではなく対話で統治する魔族社会を」
魔族の長老会議でそう宣言したとき、半数が鼻で笑い、残りの半数は困惑した。対話で統治する魔族など、聞いたことがない。
だがザガンは動じなかった。何しろ、最弱の魔王に仕えて世界を救った男だ。不可能を可能にする方法を、嫌というほど見てきた。
「具体的には、各集落の代表を選挙で決め、定期的な合議を──」
「くだらん」
ベリオスの声が会議室に響いた。
元魔王軍総大将。巨躯に似合わぬ鋭い目つきで、ザガンを睨んでいる。
「力なき者に発言権を与えてどうする。混乱を招くだけだ」
「かつてはそう思っておりました。しかし──」
「しかし、偽魔王に感化されたか。参謀殿」
ベリオスの声には棘があった。
だが、かつてのような敵意はなかった。棘はあるが、毒はない。
「力は必要だ」
ベリオスが腕を組んだ。
「だが──力だけでは足りない。それを教えたのは、あの偽魔王だ」
会議室が静まった。ベリオスが偽魔王を認めるような発言をしたのは、これが初めてだった。
ベリオスの部下たちは、後にこう噂した。
「総大将が丸くなった……あれは魔王の呪いに違いない」
「呪いじゃない! 断じて!」
ベリオスの怒号が魔族の砦に響いたのは、また別の話だ。
一方、セラフィオンは神々の領域へ帰還した。
三対の翼が光の柱を纏い、天上へと昇っていく。最後に振り返ったセラフィオンの金色の瞳は、かつてとは異なる色を帯びていた。
「報告する」
神々の前で、セラフィオンは静かに告げた。
「強さの定義を更新すべきだ。我々は間違っていた」
神々がざわめいた。
セラフィオンは続けた。
「我々は力ある者を試し、力なき者を退けてきた。だがあの魔王──ヴァルゼンは、力なきまま世界を繋いだ。恐怖ではなく、共感で。支配ではなく、傾聴で。我々の尺度では測れぬ強さが、確かにそこにあった」
それ以上は語らなかった。
語る必要がなかった。虚淵を退けた事実が、何よりも雄弁だったからだ。
そしてその夜──酒場に、二人の男がいた。
エルヴィンとザガンだ。
勇者と元魔王軍参謀。かつては敵同士だった二人が、向かい合って酒を酌み交わしている。
酒場の主人は最初こそ腰を抜かしかけたが、二人が穏やかに談笑しているのを見て、黙って酒を運ぶことにしたらしい。
「なあザガン」
エルヴィンが杯を傾けた。上機嫌だった。世界は平和になり、仲間は元気で、酒は美味い。勇者にとってこれ以上の幸せはない。
「お前って、最初からヴァルゼンに仕えてたんだよな」
「ええ。魔王軍時代からです」
「あいつのどこを見て仕えようと思ったんだ?」
ザガンは杯を揺らした。琥珀色の液体が小さく波打つ。
「……弱かったからです」
「弱い?」
「弱い王には、強い家臣が必要です。そして強い家臣を正しく用いることができるのは、自分の弱さを知る王だけです。──私は、そういう王に仕えたかった」
エルヴィンはしばらく黙った。
それから、大きく頷いた。
「なるほどな。よくわからんが、お前がヴァルゼンを信じてるのはわかる。俺と同じだ」
「勇者殿と同じ、というのは些か不本意ですが」
「ははっ、嫌がるなよ!」
杯がぶつかる音が、酒場に響いた。
魔王を最も信じる人間と、魔王の弱さを最も知る魔族。種族の壁を超えた、不思議な友情がそこにあった。
三杯目を空にしたあたりで、エルヴィンがふと真顔になった。
「なあザガン。お前はヴァルゼンが弱いって知ってたのか?」
唐突な問いだった。
ザガンは杯を置いた。
「……さて。何の話ですかな」
「いや、さっきお前『弱い王に仕えたかった』って言ったろ。それって、ヴァルゼンが弱いって知ってたってことか?」
「弱さにも様々な種類がございます。ヴァルゼン様は──」
「ごまかすなよ」
エルヴィンが笑った。酔いのせいか、いつもより声が柔らかい。
「まあいいか。弱くても強くても、あいつはあいつだ。それだけは間違いない」
ザガンは小さく息をついた。
それから、僅かに──本当に僅かに、口角を上げた。
「……ですね」
酒場の窓から、星空が見えた。
虚淵が消えた空は、澄み切って美しかった。




