世界が平和になると、人はそれぞれの場所へ帰っていく。
世界が平和になると、人はそれぞれの場所へ帰っていく。
最初に旅立ったのはグリゼルダだった。
王国騎士団への復帰命令が届いたのは、全種族会議の翌日のことだ。グリゼルダは命令書を読み上げると、きっちり折りたたんで懐にしまい、ヴァルゼンの前に片膝をついた。
「ヴァルゼン様。騎士団に戻ります」
「う、うん。お疲れさまでした、グリゼルダ。本当にお世話になりました」
「ですが──」
グリゼルダが顔を上げた。鋼のような灰色の瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを見据えている。
「私の剣は、ヴァルゼン様に捧げたままです。その事実は変わりません」
「え。いや、騎士団に戻るなら騎士団に捧げてください」
「お断りします」
きっぱりと言い切った。
ヴァルゼンは助けを求めるようにエルヴィンを見たが、エルヴィンは感動した顔で頷いている。助けにならない。
後日、騎士団に復帰したグリゼルダが上官の前で「私の剣は魔王ヴァルゼン様に捧げております」と宣言し、上官が「騎士としてそれはどうなんだ」と困り果てたという報告が届いた。
なお、グリゼルダの武勲と実力を考慮した結果、上官は「好きにしてくれ」と匙を投げたらしい。
次にフェリクスが新しい道を歩み始めた。
中央学院に戻った賢者は、即日、新たな研究テーマを学院長に提出した。
「『魔王ヴァルゼンの行動パターンの完全解析──無自覚戦略の体系化と応用可能性について』」
学院長は首を傾げたらしい。
「これは……何年の研究を想定しているのかね?」
「概算で三百年ほどです」
「君の寿命は?」
「足りません。後継者を育成します」
フェリクスは真顔だった。ヴァルゼンの行動記録を分析すればするほど「合理的な解釈が不可能な箇所」が増え続け、それを「未解明の深遠な戦略」と解釈しているためだ。
実際には、その「不可能な箇所」のほとんどは「パニックで体が勝手に動いた」「怖くて逃げたらたまたまうまくいった」で説明がつく。つくのだが、フェリクスの分析力が高すぎて、逆に単純な答えに辿り着けないのだった。
「あと三百年あれば解ける……いや、解けないかもしれない。ヴァルゼン殿の思考は常に我々の五手先を行っている」
行っていない。一手先すら見ていない。
そしてミラベルは、聖都リテラの大神殿に戻った。
戻った彼女がまず始めたのは、説法だった。
「皆さん、今日は最弱の魔王の教えについてお話しします」
神殿の広間に集まった信者たちが、真剣な面持ちで耳を傾けた。
「弱くても、人の話を聞いていれば、なんとかなります」
沈黙が流れた。
一人の信者が手を挙げた。
「それは……何かの比喩でしょうか?」
「いいえ。そのままです。弱くても、ちゃんと人の話を聞いて、逃げずに──いえ、逃げてもいいんです。逃げながらでも人の話を聞いていれば、なんとかなります」
信者たちが顔を見合わせた。
やがて一人が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「なんと深い教えでしょうか……! 弱さを認め、他者に耳を傾け、時に退くことを恐れない──これぞ真の強さ!」
「深くないです。そのままです」
「ご謙遜を! さすが最凶の魔王に仕えた聖女!」
ミラベルは苦笑した。
違うのだ。本当にそのままなのだ。ヴァルゼンはただ弱くて、ただ人の話を聞いていて、ただ逃げていた。それだけなのだ。
でも──それだけのことが、世界を救った。
だからこそ、ミラベルはその教えを「深い」とは言わない。深くないからこそ、尊いのだと信じている。
信者たちには、最後まで伝わらなかった。
夕暮れ時。
三人がそれぞれの場所で、ふと窓の外を見た。
グリゼルダは騎士団の訓練場で剣を振る手を止め、夕陽を見て笑った。
フェリクスは研究室の窓辺で万年筆を置き、夕陽を見て微笑んだ。
ミラベルは神殿の回廊で祈りの手を止め、夕陽を見て目を細めた。
同じ空の下で、三人は同じ人物のことを思い出していた。
怯えた顔で「あの、その、僕は……」と言うあの声を。情けなくて、頼りなくて、でも不思議と安心する──あの声を。
三人とも笑っていた。
困ったように、でも嬉しそうに。
当のヴァルゼンは、そのとき魔王城の執務室で報告書の山と格闘していた。
夕陽に気づく余裕は、まだなかった。




