世界が、息を吹き返した。
世界が、息を吹き返した。
虚淵が消えたその瞬間、大地を覆っていた灰色の靄が嘘のように晴れた。各地の報告によれば、枯死していた森に新芽が芽吹き、汚染されていた河川の水が澄み、空は数年ぶりに青い色を取り戻したらしい。
人々は歓喜した。
魔族も歓喜した。
神々すら微笑んだと伝えられている。
そして──その歓喜の中心に、一つの名前があった。
「魔王ヴァルゼン万歳!」
「最凶の魔王が世界を救った!」
「魔王陛下の御慈悲に感謝を!」
ヴァルゼンは、ベッドの上で報告書を聞きながら胃を押さえていた。
まだ体が本調子ではない。虚淵との最終局面で魔力を使い果たし、三日間意識不明だったのだ。目が覚めたのは昨日のことで、ようやく上半身を起こせるようになった程度である。
そんな状態で、次から次へと各地からの報告書が届く。
問題は、その内容だった。
「東の港町からの報告です。『魔王ヴァルゼン様が雄叫び一つで虚淵を消し飛ばした』とのこと」
ザガンが淡々と読み上げた。
「あの、ザガン。僕は雄叫びなんて上げてません。むしろ終始無言でしたよね……?」
「もちろん存じております。しかし、報告書にはそう記載されています」
「訂正してください」
「承知しました。──次の報告です。北の山岳都市より。『魔王の眼光が世界を貫き、虚淵の核を射抜いた』」
「目を閉じてたんですけど」
「西の穀倉地帯より。『何もしていないように見えたが、あれこそが最凶の戦術。無為にして万事を成す──魔王の兵法の極致である』」
「何もしていないように見えたのは本当に何もしていなかったからです!」
ヴァルゼンの声が裏返った。
いや、正確には何もしていなかったわけではない。魔力循環の再起動という途方もないことを成し遂げたのだ。だがそれは「雄叫び」でも「眼光」でも「兵法」でもない。
目を閉じて、世界の魔力の流れに意識を沈めていただけだ。
地味だ。あまりにも地味だ。
「南方の竜人族からの書簡です。『我らが認めし最凶の魔王、その偉業を末代まで語り継がん』──なお、竜人族の末代は概算で五千年後です」
「五千年!? 五千年間も誤解が語り継がれるんですか!?」
「誤解ではございません。偉業です」
ザガンの表情には微塵も変化がなかった。この男はヴァルゼンが最弱であることを最初から知っていながら、なお「偉業」と呼ぶ。それが忠義なのか皮肉なのか、ヴァルゼンには判断がつかなかった。
報告書の山は、一向に減らなかった。
ヴァルゼンが「違います」と言うたびに、ザガンは「承知しました」と頷き、次の報告書を開いた。訂正された形跡は、一通もなかった。
やがてエルヴィンが見舞いに来た。
花束を抱えている。勇者が魔王に花を持ってくる図は相当に珍妙だったが、エルヴィン本人は心底嬉しそうだった。
「ヴァルゼン! 目が覚めたんだな! いや、やっぱりお前はすごい。世界を救って三日で復活するとは」
「三日寝込んでたんですが……」
「三日で済むのが凄いんだよ! 普通なら死んでるぞ!」
普通なら死んでいた。それはおそらく正しい。しかしそれは「凄い」のではなく「運が良かった」だけだ。
ヴァルゼンが反論しようとした瞬間、エルヴィンが報告書の山を見て目を丸くした。
「おお、すごい量だな。世界中から感謝の声が届いてるのか」
「感謝じゃないんです。全部間違ってるんです」
「間違い? どこが?」
「全部です」
「ははっ、相変わらず謙虚だな!」
謙虚じゃない。事実だ。
エルヴィンは花束をベッド脇の花瓶に生けると、報告書を一枚取り上げて読み始めた。
「『魔王の静謐なる威圧によって虚淵は恐怖に飲まれ、自壊した』──ふむ。確かにちょっと控えめだな」
「控えめ!?」
「お前の凄さはこんなもんじゃないだろ。もっと盛っていいぞ」
「盛らないでください! 減らしてください! できればゼロにしてください!」
ヴァルゼンは枕に顔を埋めた。
世界は救われた。それは間違いない。
だが救われた世界で最初にヴァルゼンを待っていたのは、過去最大規模の誤解の洪水だった。
報告書の山に手を伸ばす。次の一通を開く。
「『最凶にして最善の魔王。その名は永遠に世界の礎として刻まれるであろう──中央歴史編纂局』」
「……もう、どうにでもなれ」
ヴァルゼンの呟きは、誰にも届かなかった。
世界は平和になった。しかしヴァルゼンの胃痛は、まだ始まったばかりだった。




