再起動の余波が、世界中に広がっていった。
再起動の余波が、世界中に広がっていった。
各要所から勝利の報告が次々と届く。虚淵の消滅に伴い、歪みの怪物は全て消え去った。防衛線は役目を終え、兵士たちが武器を下ろしている。あちこちで歓声が上がり、抱き合い、泣き笑いする姿が見えた。
ヴァルゼンは──ベッドの上にいた。
核心近くに急遽設営された天幕の中。ミラベルの治癒と安静によって命に別状はないが、体が全く動かない。魔力の完全枯渇による衰弱で、指先すら満足に動かせない状態だった。
「お加減はいかがですか、ヴァルゼン様」
ミラベルが枕元に座り、濡れた布でヴァルゼンの額を拭いていた。目はまだ赤いが、泣き止んではいる。泣き止んではいるが、時折ぐすっと鼻を鳴らす。
「だ、大丈夫です。体が動かないだけで、痛くはないですから」
「無理をしないでください。あなたはもう、十分すぎるほど頑張りました」
ミラベルの翡翠色の瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを見つめていた。
その目に──以前とは違う何かがあった。崇敬や同情ではなく、もっと穏やかで、もっと確かなもの。
ヴァルゼンはその視線から逃げるように目を逸らした。なんだか、心臓がどきどきする。別の意味で。
天幕の入り口が開き、次々と報告が入ってきた。
ザガンが淡々と読み上げる。
「北の要所──虚淵消滅確認。被害軽微。東の要所──同じく確認。防衛線の修復は不要。南東──ベリオス将軍の部隊が残敵掃討を完了。全要所、安全を確認しました」
「よ、よかった……」
ヴァルゼンが心底安堵した声を出した。
「ちなみに陛下、各要所からの報告に付記された文言を読み上げてもよろしいですか」
「え? はい」
「北の要所より。『魔王万歳。我らの王に栄光あれ』。東の要所より。『魔王万歳。銀狼の誓いは果たされた。魔王に永久の栄華を』。南の要所より。『魔王万歳。知をもって世界を救った王に、万雷の喝采を』。南東の要所より。『魔王万歳。力なき王こそ真の王。ベリオス拝』。西の要所より。『魔王万歳。癒しの主に、永遠の感謝を。治癒師団一同』」
ザガンが淡々と読み上げるたびに、ヴァルゼンの顔が赤くなっていった。
「ま、魔王万歳は──」
「まだあります。精霊の森より。『魔王万歳。風と水の精霊は、永久に魔王の友となる』。人間王国より。『魔王万歳。王国は魔王ヴァルゼンの功績を永く記録する』。神殿勢力より。『魔王万歳。神々もまた、魔王の偉業を認める──とのこと、セラフィオン殿経由で届いております』」
「や、やめてください……!」
ヴァルゼンが布団を頭まで引き上げた。真っ赤な顔を隠すように。
「魔王万歳はやめてください……! 僕はそんな──そんな大層なことを──」
「しましたよ」
天幕の入り口にエルヴィンが立っていた。腕を組んで、にやにやしている。
「世界を救っておいて『大層なことをしていない』はさすがに無理があるぞ、ヴァルゼン」
「だって、僕は目を閉じて立ってただけで──」
「それで虚淵が消えたんだ。歴史に残るぞ。『目を閉じて世界を救った魔王』として」
「やめてくださいいいい」
布団の中から悲鳴が上がった。
グリゼルダが天幕に入ってきた。包帯だらけだが、背筋はいつも通り伸びている。
「ヴァルゼン様。全軍の将兵が、あなたに感謝しています。受け取ってください」
「グリゼルダさんまで──」
「あと、申し訳ありませんが、外に五千人ほど集まっています。魔王万歳を直接言いたいとのことで」
「五千!? 無理です無理です無理です!」
布団がさらに深く引き上げられた。もはやヴァルゼンの姿は完全に布団の中に消えている。
フェリクスが天幕の隅で腕を組んでいた。
「魔王殿。布団を被って震えているその姿、外からどう見えるかご存知ですか」
「ど、どう見えるんですか」
「『勝利に驕らぬ謙虚さ。民の前に出ることを潔しとしない清廉さ。さすが最凶の魔王、器が違う』──だそうです」
「違います! ただ恥ずかしいだけです!」
「ええ、存じています。ですが誰も信じませんよ」
フェリクスの笑みに、もう皮肉はなかった。
ミラベルが布団の上からそっとヴァルゼンの手を握った。
「ヴァルゼン様。世界中の人が、あなたに感謝しています。……受け取ってあげてください」
「ミラベルさん……」
「あなたは弱くても、世界を救いました。それは──嘘でも誤解でもない、本当のことです」
布団の中で、ヴァルゼンの目が潤んだ。
ザガンが天幕の外に向かって声をかけた。
「陛下は現在、静養中です。面会は後日改めて──」
外から五千人分の「魔王万歳!」が轟いた。天幕が揺れた。
「ひいいいい」
布団の中から悲鳴。
エルヴィンが笑った。グリゼルダが口元を押さえた。フェリクスが肩を竦めた。ミラベルが涙目で微笑んだ。ザガンの尾が揺れた。
天幕の外では、世界が再生を続けていた。
空は澄み渡り、大地は緑に覆われ、人々は歓喜に包まれている。
その中心にある天幕の中で──布団を被った魔王が、小さく笑っていた。
恥ずかしい。怖い。大袈裟すぎる。僕はそんなすごいことをしたわけじゃない。
でも──
「……終わったんだ」
布団の中で、誰にも聞こえないように呟いた。
終わった。
仲間がいて、世界が繋がって、虚淵が消えて。
最弱の魔王は──最弱のまま、世界を救った。
布団の隙間から、光が差し込んでいた。
再生した世界の、柔らかな光。
ヴァルゼンは目を閉じた。
今度は糸を繋ぐためではなく──ただ、安心して眠るために。
布団の中で、小さく笑いながら。
天幕の外に出たエルヴィンが、青空を見上げた。
隣にグリゼルダが立ち、フェリクスが腕を組んでいた。ミラベルがまだ少し赤い目で空を見つめ、ザガンが腰に手を当てている。
「……終わったな」
エルヴィンが言った。
「ええ」
グリゼルダが頷いた。
「最凶の魔王が世界を救った。──歴史に残る日だ」
フェリクスが肩を竦めた。笑っていた。
「最弱の魔王が、ですよ」
ミラベルが小さく訂正した。全員がそちらを見た。ミラベルは泣き笑いの顔で、核心の魔法陣を見つめていた。
「最弱で、最凶で──最高の魔王です」
誰も反論しなかった。
空は、どこまでも青かった。




