目覚めたヴァルゼンの周囲で、世界が生まれ変わっていた。
目覚めたヴァルゼンの周囲で、世界が生まれ変わっていた。
虚淵が消えた跡──つい先刻まで荒廃と虚無に覆われていた大地に、緑が芽生えていた。枯れ果てた草原に若葉が広がり、折れた木の幹から新しい枝が伸び、涸れた泉が透き通った水を湛えている。
空は──澄み渡っていた。
虚淵の黒い染みは一片も残らず消え、見渡す限りの青空が広がっている。雲が緩やかに流れ、太陽の光が世界全体を柔らかく照らしていた。
美しかった。
息を呑むほどに。
ヴァルゼンはエルヴィンに支えられながら、上半身を起こしてその光景を見つめていた。体には力が入らない。指先一本動かすのも億劫で、瞼を開けているだけで精一杯だった。
「あの……」
掠れた声で、もう一度訊いた。
「僕、何かしましたか……?」
本気だった。
ヴァルゼンの記憶は曖昧だった。目を閉じて、魔力の糸を繋いで──そこまでは覚えている。しかし途中から意識が朦朧として、何が起きたのか正確には把握できていない。
倒れたらしい。泣かれたらしい。でも自分が何をしたのか、本当にわからなかった。
エルヴィンが呆れた顔をした。
「何をした、だと? お前は世界を救ったんだぞ」
「いえ、それは皆さんが戦ってくれたからで──」
「目を閉じて立ってるだけで虚淵を消した男が何を言ってるんだ」
違う。目を閉じて立ってただけじゃない。意識の中で死に物狂いで糸を繋いでいたのだ。
でもそれを説明する気力がなかった。
フェリクスが口を挟んだ。
「魔王殿。簡潔に申し上げますと、あなたは魔力循環を100パーセント再起動させました。虚淵は消滅し、世界は再生を始めています。この戦場にいる全員が──いえ、世界中の全ての生命が、あなたに救われました」
「そ、そんな大層なことを僕が……」
「大層なことを大層でないように見せるのが、あなたの十八番でしょう」
フェリクスの口元に、穏やかな笑みが浮かんでいた。
ヴァルゼンにはその笑みの意味がわからなかった。分析家の目ではない、もっと温かい──信頼の目だった。
グリゼルダが腕を組んで言った。
「ヴァルゼン様。あなたは目を閉じて微動だにせず、ただ立っているだけで虚淵を消滅させました。……さすがとしか言いようがありません」
「いえ、立ってただけじゃなくて、中では結構──」
「中で何をされていたかは存じませんが、結果が全てです。あなたは世界を救った。それだけが真実です」
武人の宣言だった。反論の余地がない。
ミラベルが──まだ泣いていた。
「ヴァルゼン様……ヴァルゼン様がいてくださって、本当に……よかったです……」
翡翠色の瞳が涙で揺れている。ヴァルゼンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。泣かせてしまった。また泣かせてしまった。
「ミラベルさん、泣かないで──」
「泣いて何が悪いんですかっ。あなたが倒れたとき、私、私──」
また号泣が始まった。エルヴィンが「よしよし」とミラベルの背中をさすっている。なぜか勇者まで目が赤い。
ザガンが近づいてきた。
「陛下。お目覚めのところ恐縮ですが、一つだけよろしいですか」
「は、はい」
「あなたは世界を救いました。これは事実です。──しかし私が最も感銘を受けたのは、救った後の第一声が『なんで泣いてるんですか』だったことです」
ザガンの口元に、あの絶妙な笑みが浮かんでいた。皮肉と本心の境界線上にある、四百年の老臣の笑み。
「さすがは陛下。世界を救っておきながら、ご自覚がないとは。──ええ、だからこそ仕えているのですよ」
尾が揺れていた。
セラフィオンは──少し離れた場所に浮いていた。三対の翼を閉じ、金色の瞳でヴァルゼンを見ている。
「観測は完了した」
超然とした声──のはずが、どこかにぎこちなさがあった。
「汝は──規格外の存在だ。我の観測では、捉えきれぬ」
一拍、間があった。
「だが──悪くはなかった。この観測は」
翼が微かに明滅した。ミラベルがそれを見て「あ、照れてます」と指摘し、セラフィオンが「照れてなどいない。翼の不具合だ」と反論した。誰も信じなかった。
ヴァルゼンは全員の顔を見回した。
みんなが笑っている。泣いている人もいるが、笑っている。
誰一人──「お前は弱いだろう」とは言わなかった。
知っていても、知らなくても。
ヴァルゼンが世界を救った事実は変わらない。
最弱であることも、仲間たちの信頼も、この瞬間の温かさも──全部、本物だ。
「あの……」
ヴァルゼンが遠慮がちに言った。
「誰か、説明してください……。僕は本当に、何をしたんですか……」
全員が顔を見合わせた。
そして──全員が笑って首を振った。
「やはりこの方は」とフェリクスが呟き、「さすがは」とザガンが続け、「最凶の魔王は格が違う」とエルヴィンが真顔で頷いた。
ヴァルゼンは困り果てた顔で、再生していく世界を見つめた。
ミラベルが「ヴァルゼン様は世界を救ったんですよ」と説明しようとして、声が詰まって泣き出した。エルヴィンが代わりに説明しようとしたが、「お前は最凶の魔王として世界を──」と始まったので余計にわかりにくくなった。
フェリクスが簡潔に状況を説明しようとしたが、ヴァルゼンが「でも僕は目を閉じて立ってただけで」と言うたびに全員が「だからそれがすごいんだ」と口を揃えた。
平行線だった。
ヴァルゼンにとっては「意識の中で必死に糸を繋いでいただけ」であり、みんなにとっては「目を閉じたまま世界を救った偉業」だった。同じ出来事の解釈が、ここまでずれることがあるのか。最初から最後まで、誤解の嵐だった。
ザガンだけが全てを理解していた。
弱い王が、弱いまま、仲間の力を借りて世界を繋いだ。それが真実だ。しかしザガンはそれを口にしなかった。真実を知っていても知らなくても、結論は同じだから。
「陛下は休んでください。説明は──後日、ゆっくりと」
ザガンの穏やかな声で、議論は打ち切られた。尾が揺れていた。本心だった。
ヴァルゼンはエルヴィンに支えられながら横になった。体が重い。指一本動かすのが億劫だ。
しかし──温かかった。みんなの視線が。みんなの声が。
わからないことだらけだった。
自分が何をしたのか、本当にわからない。みんなが泣く理由も、感謝される理由も、「最凶」と呼ばれ続ける理由も。
でも──みんながいた。
笑っている人たちがいた。泣いている人たちがいた。自分のために。
それだけで、十分だった。




