闇が、ヴァルゼンを飲み込もうとしていた。
闇が、ヴァルゼンを飲み込もうとしていた。
再起動率95パーセント。あと5パーセント。しかしその最後の壁を超えるために、ヴァルゼンは虚淵の核に最も近い場所まで意識を伸ばしていた。
虚淵は──ヴァルゼンを選んだ。
残り5パーセントの糸を守ることではなく、ハブであるヴァルゼン自身を消すことで、全てを終わらせようとしていた。糸を切るより、糸を紡ぐ手を消す方が確実だ。賢い選択だった。虚無にも、それくらいの知恵はあった。
冷たかった。
魔力感知で感じる「冷たさ」ではない。もっと根源的な──存在が削り取られていく感覚。指先から消えていく。足先から消えていく。自分という存在が、端から薄れていく。
ヴァルゼンの意識の端が、少しずつ消えていた。
記憶が曖昧になる。名前が──自分の名前が、一瞬わからなくなった。
外の世界では、ヴァルゼンの体に異変が起きていた。
魔法陣の上に立つその体の輪郭が、微かに──揺らいでいた。まるで蜃気楼のように、存在そのものが薄れ始めている。指先が透け、足元の影が薄くなっている。
虚淵による存在の消去。物理的な破壊ではなく、「そこにいた」という事実そのものを消し去る力。
「ヴァルゼン!」
遠くで、エルヴィンの絶叫が聞こえた。聖剣を振り捨てて核心に向かって走り出そうとしたが、前線を離れれば防衛線が崩壊する。動けない。
「ヴァルゼン様!」
グリゼルダの叫び。ミラベルの悲鳴。フェリクスの鋭い声。
しかしヴァルゼンの意識には、もう外の音は届いていなかった。
闇の中で、ヴァルゼンは一人だった。
みんなの力は受け取った。魔族の力、勇者の力、神の力。全てがヴァルゼンの中にある。だが虚淵の侵食は、それら全てを上回る速度でヴァルゼンの存在を削っていた。力があっても──自分という「器」が消えれば、力の行き場がなくなる。
怖い。
消えるのが、怖い。
死ぬのとは違う。死ぬのなら──まだ、「死んだ」という事実が残る。しかし虚淵の消去は、「いた」という事実すら消す。誰の記憶にも残らない。世界から完全に消える。
その恐怖の中で──記憶が浮かんだ。
走馬灯、と呼ぶのだろうか。
意識が薄れていく中で、旅の記憶が一つ一つ、浮かんでは消えた。消えかけている自分が、最後に見ているもの。
最初の記憶。
戦場跡で転んだ自分に、エルヴィンが手を差し伸べた。金髪が夕日に輝いて、碧い目が真っ直ぐで──怖かった。あの手を取るのが、怖かった。死にたくないから取った。それだけの理由で始まった旅が──ここまで来た。
「俺は信じる!」と何度も叫ぶあの男。的外れな信頼。壮大な誤解。でも──あの声を聞くと、不思議と安心した。
次の記憶。
グリゼルダが初めて膝をついた日。「お見事です、ヴァルゼン様」と言われて、意味がわからなくて、怖くて。あの蒼灰色の目は武人の畏怖に満ちていて、自分はただ転んだだけなのに。でも──あの人が背中を守ってくれるから、前を向けた。
フェリクスの記憶。
「興味深い」と言われるたびに胃が痛んだ。モノクルの奥の目が何を分析しているのかわからなくて、手帳に何を書いているのかわからなくて。「僕の分析によれば」で始まる長い解説が、正直ほとんど理解できなかった。でも──いつしか、あの知的な視線が頼もしくなっていた。わからないことを、わかるように翻訳してくれる人がいるのは、心強かった。
ミラベルの記憶。
初めて泣かれた日。「ヴァルゼン様のお心を思うと……」と言われて、何も思っていないのに、申し訳なくて。でも彼女の涙は温かくて、自分がここにいてもいいのだと──初めて思えた瞬間だった。泣き虫の僧侶が差し出してくれた手の温もりを、今でも覚えている。
ザガンの記憶。
「さすがは陛下」の声が、最初は怖かった。皮肉なのか本心なのかわからなくて。でも四百年を生きた老臣が、自分のような弱い魔王に仕えてくれている。「弱いと知っていて、仕えた」──その言葉の意味が、今ならわかる。
セラフィオンの記憶。
「汝に問う」と言われるたびに緊張した。神使に試されるのは胃に悪い。でも最後に見せてくれた表情──超然とした仮面の下の、どこか人間臭い戸惑い──が、なぜか嬉しかった。「おい、魔王」と呼ばれたとき、少しだけ──友達ができたような気がした。
全てが──「誤解」から始まった。
エルヴィンの壮大な誤解。グリゼルダの武人の畏怖。フェリクスの知略の深読み。ミラベルの共感の投影。ザガンの忠義。セラフィオンの観測。
誰一人、本当のヴァルゼンを見ていなかった。
最弱の、ゴブリンに追い出された、何の取り柄もない魔王。火を熾す魔法すら三回に一回失敗する。それが本当の自分だ。
でも──今は。
誤解でも、真実でもない。
もうどちらでもよかった。
あの人たちと──旅ができた。
怖くて、情けなくて、恥ずかしくて、逃げ出したくて、でも──楽しかった。仲間がいた。居場所があった。最弱の自分を──必要としてくれる人たちがいた。
それだけで──十分だった。
闇がさらに深くなった。
ヴァルゼンの存在が、消えかけている。外の世界では、体の輪郭がさらに薄くなっていた。
意識の端が溶けていく。記憶が遠ざかる。光が薄れる。
でもヴァルゼンは──微笑んでいた。
暗闇の中で、消えかけながら、笑っていた。
怖い。消えるのは怖い。
でも──後悔はない。
「みんなと──旅ができて、よかった」
その言葉は、声にならなかった。
だが魔力の流れの中に、微かに溶け出した。
世界中の、ヴァルゼンと繋がった全ての人々の心に──最後の言葉が、届こうとしていた。
丘の上の群衆が、息を呑んだ。
核心に立つヴァルゼンの体が──透けている。輪郭が揺らぎ、足元の魔法陣の光が体を透過して見えた。
「消えかけている……!」
「魔王が──消える!?」
悲鳴が上がった。
しかしヴァルゼンの顔は──穏やかだった。消えかけているというのに、微笑んでいた。
その笑みが何を意味するのか、群衆には理解できなかった。
しかし仲間たちには──わかった。
あの笑みは、諦めではない。満足だ。
旅ができたことへの、純粋な感謝。
だから──まだ終わらせない。




