再起動率70パーセント。
再起動率70パーセント。
世界の七割が繋がった。虚淵は明確に縮小を続け、黒い空に開いた青い穴は刻一刻と広がっている。荒廃した大地に緑が戻り、枯れた川に水が流れ始め、枯死した森に新芽が吹いた。世界中で──少しずつ、しかし確実に、生命が息を吹き返していた。
希望は、確かにそこにあった。
しかし──ヴァルゼンの意識は、限界に達しつつあった。
目を閉じたまま立ち続けて、どれほどの時間が経ったのか。
もはやわからない。時間の感覚が消え、空間の感覚が溶け、自分がどこにいるのかさえ曖昧になっていた。肉体が存在しているという確信すら、薄れかけている。自分は立っているのか。それとももう倒れているのか。
意識の中で、世界の魔力の糸が揺れている。
七割が繋がった。しかし残りの三割は、虚淵の最深部に近い場所にある。侵食が最も激しく、繋いでも繋いでも食い破られる。闇がまとわりつき、腐食させ、引き剥がす。一本繋ぐのに、さっきまでの三倍の集中が必要だった。
ヴァルゼンは糸を紡ぎ続けていた。
もう「紡ぐ」というより「しがみつく」に近かった。切れそうな糸の端を必死に掴み、離すまいとする。指が──意識の指が痺れている。感覚が鈍い。何を掴んでいるのかすら、よくわからなくなってきた。
71パーセント。
進まない。
72パーセント。
進まない。
70パーセント台で、停滞していた。
虚淵の抵抗がここに来て最大になっている。残り三割の領域は虚淵の核に近く、侵食の力が格段に強い。繋いだ瞬間に切れる。まるで腐った布を縫い合わせているような──縫った先から千切れる絶望。
ヴァルゼンの魔力感知が揺らいだ。
朦朧とする。
意識が霞む。
繋いだ糸を維持するだけで精一杯で、新しい糸に手を伸ばす余裕がない。攻守のバランスが崩れている。守ることしかできない。しかし守るだけでは前に進めない。
汗が額から顎を伝って落ちた。
外から見ても、それは明白だった。魔法陣の上に立つヴァルゼンの顔面は蒼白で、汗が噴き出し、唇が微かに震えている。さっきまでの「何もしていないように見える」余裕は、もうどこにもなかった。
無理だ。
もう無理かもしれない。
ヴァルゼンの内心で、いつもの弱音が浮かんだ。
しかし今回は──いつもと違った。
いつもなら「死ぬ死ぬ死ぬ!」とパニックになるところだ。叫んで、わめいて、足をばたばたさせて──それでも結局やるしかないから歯を食いしばる。そのパターンが、何百回と繰り返されてきた。
しかし今は、そのパニックすら起きなかった。パニックを起こす元気すらない。ただ深い疲労と、微かな絶望だけが、意識の底に沈殿していた。
静かな諦めが、ゆっくりと広がっていく。
「もう……無理かもしれない……」
呟いた。
声にならないはずだった。ヴァルゼンの意識は魔力の流れの中にあり、肉体の口は動いていないはずだった。そもそも肉体の感覚がほとんど消えている。自分が何を言っているのか、自覚すらなかった。
しかし──その弱音は、魔力を通じて流れ出した。
ヴァルゼンが繋いだ魔力の糸。世界中に張り巡らされた、七割の回路。その全てが、ヴァルゼンの意識と繋がっていた。ヴァルゼンが世界を感じているのと同じように──世界もまた、ヴァルゼンを感じていた。
だから──弱音が、糸を伝って世界中に広がった。
最初に気づいたのは、フェリクスだった。
南の管制塔。術式の制御盤に、異常な波形が現れた。規則的なデータの流れの中に、不規則な──感情的な波が混じっている。
「これは──魔王殿の意識が、魔力回路に漏洩している?」
データを読み取る。波形は声ではない。感情だ。疲労と、恐怖と、微かな絶望。数値に変換できないほど生々しい、人間の──魔族の──弱さそのものが、データの中に溶け込んでいた。
フェリクスの顔が強張った。
手帳は閉じたままだった。閉じたまま──拳を握った。
次にエルヴィンが気づいた。
北の前線で聖剣を振るっていたエルヴィンの手が、一瞬止まった。聖剣が──震えた。刀身の白金の輝きが揺らぎ、共鳴するように細かく振動している。聖剣はヴァルゼンの魔力循環と共鳴している。その震えが、ヴァルゼンの弱音を伝えていた。
「ヴァルゼン……?」
エルヴィンの碧い瞳が見開かれた。
東の防衛線ではグリゼルダが。大剣を構える手が止まり、蒼灰色の瞳が核心の方角を向いた。
西の救護陣地ではミラベルが。治癒の杖から伝わる振動に、翡翠色の瞳を見開いた。
南東の要所ではベリオスが。戦斧を握る拳が、理由もなく震えた。
魔族部隊ではザガンが。尾が大きく揺れ、琥珀色の瞳が空を仰いだ。
全員が、同時に感じ取った。
魔力の流れの中に溶け出した、ヴァルゼンの声。
「もう……無理かもしれない……」
震える声だった。
弱くて、小さくて、今にも消えそうな声。最弱の魔王にふさわしい──ひどく人間的な、弱音。
各要所で──世界中で、動揺が広がった。
「魔王様が苦しんでいる」
それは兵士たちの間に、瞬く間に伝わった。
魔力の流れに乗って、言葉として届いたわけではない。だが「何か」が伝わった。魔王が限界に達していること。助けを──いや、助けではなく、ただ弱音が漏れたのだということ。
兵士たちの表情が変わった。動揺ではなく──何か別の感情が、彼らの胸に火をつけた。
「魔王様が……」
「あの魔王が弱音を……」
「あの方でも、苦しいんだ……」
「だったら──俺たちが何とかしなければ」
群衆の間にも伝わっていた。
丘の上で議論を繰り広げていた人々が、口を噤んだ。太った商人の目が潤んでいた。元兵士の老人が、拳を握りしめていた。
「何もしていないように見える魔王」が──苦しんでいる。
それを知った瞬間、世界中の人々の心が──動いた。
世界中に、ヴァルゼンの声が響いていた。
本人は気づいていない。弱音が漏れ出したことすら自覚していない。意識が朦朧とし、糸を掴む力が弱まり、ただ──ただ弱さが、魔力の流れに溶け出しただけだった。
核心で、ヴァルゼンの体が微かに傾いた。
倒れそうになって──踏みとどまった。膝が笑っている。足が重い。
目は閉じたまま。
手は震えたまま。
世界中に、弱音が──まだ響いている。




