ミラベルの魔力が、限界を超えた。
ミラベルの魔力が、限界を超えた。
西の救護陣地。
負傷者は途切れることなく運ばれ続け、ミラベルの治癒の光は薄く──限りなく薄くなっていた。金色であるはずの光が、白に近い色にまで褪せている。魔力が底を突きかけている証拠だ。
杖を握る手の感覚がない。指先が白い。爪の色が紫がかっている。視界の端が暗くなり始め、耳鳴りがする。
魔力が枯渇した状態で回復魔法を使い続ければ、術者の生命力が代償に削られる。聖都の大神殿で最初に教わる禁忌。「魔力が切れたら止めなさい。さもないと命を落とします」──師匠の言葉を、ミラベルは思い出していた。
知っている。知った上で──止められなかった。
「ミラベル様、お休みください! このままでは──」
「次の方を」
穏やかな声だった。震えてはいたが、拒絶の色はない。帽子の下の翡翠色の瞳は疲労で霞んでいたが、芯の光だけは消えていなかった。
次の担架が来た。魔族の少年兵。まだ子供と言っていい年齢だった。十四か十五か。角がまだ小さく、体も華奢だ。右足が折れ、顔面が恐怖で歪んでいる。目が潤み、唇が震えている。戦場に出るべき年齢ではない。しかし虚淵の危機は、子供も老人も区別しなかった。
「だいじょうぶ。大丈夫ですからね」
ミラベルは微笑んで、杖を翳した。少年兵の手を、空いている方の手でそっと握った。冷たい手だった。
治癒の光が──出なかった。
一瞬、完全に途切れた。
魔力が底を突いた。杖の先端が暗くなり、淡い光すら消えた。
ミラベルの翡翠色の瞳が見開かれた。
だめだ。ここで止まったら、この子が──この子の足が、二度と動かなくなるかもしれない。
歯を食いしばった。
生命力を削ってでも。自分の命を削ってでも。
師匠に怒られる。でも──今、この瞬間、目の前の子供を救わなければ、自分は何のために僧侶になったのか。
淡い光が、ミラベルの体から直接滲み出した。杖を介さない、術者の生命力そのものを変換した治癒。体の内側が燃えるような感覚がある。命を削っている実感。
少年兵の骨が接合され、傷が塞がっていく。少年の顔から恐怖が消え、安堵の涙が溢れた。
同時に、ミラベルの顔色がさらに青ざめた。唇が白く、額に冷や汗が浮かんでいる。意識が遠くなりかけた。
その瞬間──
温かいものが、流れ込んできた。
ミラベルの体の内側に、魔力が注がれている。外から。どこか遠い場所から。穏やかで、優しくて、少し怯えたような──不安定だけど、不思議と温かい。
「ヴァルゼン……様……?」
ミラベルは顔を上げた。
流れ込んでくる魔力の質に、覚えがあった。微弱で、不安定で、頼りなくて──だけど不思議と温かい。世界中で一番弱い魔力。ゴブリン以下だと言われるその魔力を、ミラベルは一度感じたことがある。旅の途中で、ヴァルゼンが恐る恐る火を熾したときの──あの微かな、しかし確かに温かい魔力。
ヴァルゼンの魔力だ。
核心で世界を繋ぐ作業の真っ最中に──ヴァルゼンは、ミラベルの異常を感じ取っていた。
魔力感知。
世界全体の魔力の流れを捉えているヴァルゼンには、ミラベルの魔力が枯渇し、生命力が削られ始めたことが手に取るようにわかった。世界を感じるその感覚は、個人の魔力の変動すら見逃さない。
わかって──自分の作業を遅らせてでも、魔力を送った。
ヴァルゼンの魔力量はゴブリン以下だ。送れる量など、たかが知れている。砂漠にコップ一杯の水を撒くようなものだ。
それでも──送った。
ミラベルの目に、涙が溢れた。
「あの方は……」
声が震えた。
涙が頬を伝い、顎から落ちた。帽子の縁に雫がつく。
「みんなのことを、全部感じているのだ……」
世界を繋ぎながら。自分の限界を超えながら。虚淵の反撃と戦いながら。それでも仲間が苦しんでいることに気づいて、わずかな力を分けてくれる。
自分の作業が遅れることを、わかっているはずだ。それでも──仲間を、優先した。
弱い人だ。
途方もなく弱い人だ。
戦闘力はゴブリン以下で、攻撃魔法は暴発して、剣を持てば腰が引ける。怯えて、震えて、いつも「僕なんかが」と卑下する。
でも──この人は。
ミラベルは、とうに気づいていた。
パーティの中で、最も早く。天性の共感力が、ヴァルゼンの本質を最初から──歪んではいたが──正確に捉えていた。
ヴァルゼン様は最弱だ。
最凶の魔王などではない。怯えは本物で、震えは本物で、「僕なんかが」と卑下するあの言葉も、全部本当だ。
でも──だからこそ。
「弱いあなただから」
ミラベルの唇から、言葉が零れた。
「弱いあなただから──みんなの痛みがわかるのです。みんなの怖さがわかるのです。強い人には見えないものが、あなたには見える。だから──みんながあなたの傍に集まるのです」
涙が止まらなかった。
だが治癒の手は止めなかった。ヴァルゼンから送られた僅かな魔力を大切に──一滴残らず大切に使い、少年兵の治療を完了させた。少年が「ありがとうございます」と泣きながら言った。ミラベルは微笑んだ。泣きながら微笑んだ。
「弱いあなただから──みんなを救えるのです」
その言葉は、ミラベルだけのものだった。
誰にも聞こえない場所で、涙を流しながら言った、小さな真実。
誤解フィルターは、もう要らなかった。真実を知った。知った上で──この方についていくと決めた。
ヴァルゼンには聞こえていなかった。
彼の意識は世界を繋ぐ作業に戻っている。ミラベルに魔力を送ったことで接続作業が数秒遅れたが、彼にとってはそんなことはどうでもよかった。
仲間が苦しんでいるなら──助ける。
それだけだ。深謀遠慮ではなく、善良さだけが理由だった。
ミラベルは涙を拭い、立ち上がった。
「私も──繋がっている」
治癒の杖を握り直した。
流れ込んだ魔力は微量だったが、ミラベルの心には十分だった。
コップ一杯の水でも──渇いた心には、海のように感じられる。
回復魔法が再び輝いた。
それはこれまでで最も強い光だった──魔力の量ではなく、意志の強さが生んだ光だった。
「次の方を! まだまだ治せます!」
声は震えていた。
だが──もう、折れない。




