東の防衛線は、地獄と化していた。
東の防衛線は、地獄と化していた。
巨大な歪みの怪物が城壁ほどの体躯で突進し、防衛陣を真正面から叩き壊していた。石造りの防壁が紙のように砕け、その破片が兵士たちに降り注ぐ。人間と魔族の混成部隊が必死に抵抗するが、押し返される度に再び襲いかかってくる。
逃げ出す者はいなかった。ここを突破されれば、核心のヴァルゼンが直接攻撃に晒される。全員がそれを知っていた。
その最前線に、グリゼルダは立っていた。
銀髪が血で汚れていた。自分の血か、敵の返り血か、もはや区別がつかない。左肩の甲冑はすでに失われ、露出した肌に深い裂傷が走っている。怪物の爪に抉られた傷だ。出血は止まっているが、腕を動かすたびに激痛が走る。右膝の防具もひしゃげ、関節の動きが悪い。足を引きずるような姿勢で──それでも、大剣を構えていた。
「グリゼルダ様! もう下がってください! 治療を──」
「黙れ。まだ立てる」
一蹴した。
声に怒りはなかった。ただの事実確認だった。立てる。だから立つ。それ以上の理屈は要らない。武人とはそういうものだ。
歪みの怪物が再び突進してきた。四足の獣型。スピードが速い。地面を蹴る度に黒い飛沫を上げ、口から闇の息吹を漏らしている。狙いはグリゼルダの背後──防衛線の薄い部分。
グリゼルダは大剣を横に構え、全体重を乗せて横薙ぎに振った。左肩の激痛を歯で噛み殺す。刃が怪物の頭部を捉え、勢いそのままに地面に叩きつける。
腕が痺れた。
右腕の筋肉が限界を訴えている。大剣の重さが、いつもの三倍に感じる。これまで何千回と振るってきた剣が、こんなに重いのは初めてだった。
だが──振れる。
振れるなら、まだ戦える。
かつて部隊を率いていたとき、「動ける者は戦え。動けなくなったら死んでいる」と教えた。自分の言葉だ。自分で実践しなくてどうする。
二体目が来た。空から。翼を持つ歪みの怪物が急降下してくる。漆黒の翼が空を覆い、影が地面に落ちた。
グリゼルダは剣を翻して突き上げた。刃が怪物の胸を貫く。しかし反動で腕が上がらなくなった。怪物の体が剣ごと落ちてきて、グリゼルダの肩に激突する。
「ぐっ──!」
膝をついた。
地面に手をつき、大剣を杖代わりにして体を支える。石畳が血で濡れている。自分の血だ。
視界が霞む。出血が多い。回復魔法の担当であるミラベルは西の救護陣地にいる。ここまでは届かない。応急処置をしてくれた衛生兵も、さっきの突進で吹き飛ばされた。
立て。
立つんだ。
グリゼルダは大剣の柄を握り、歯を食いしばって立ち上がった。
脚が震えている。膝が笑っている。だが立った。二本の足が地面を掴んでいる。それだけで十分だ。
周囲の兵士たちが、息を呑んだ。
「グリゼルダ様……」
「あの方、まだ立っている……」
「あの傷で……信じられない……」
満身創痍だった。
甲冑は半壊し、体中に傷を負い、血が地面に滴り落ちている。銀髪は血と泥で汚れ、本来の輝きを失っている。それでも大剣を構える姿は──折れた盾のように、ぼろぼろでありながら、なお前を向いていた。
「私はまだ倒れていない」
グリゼルダは前を見据えた。蒼灰色の瞳に、揺らぎはなかった。痛みも、疲労も、恐怖もある。しかしそれらを全て飲み込んで、前だけを見ている目。
「ヴァルゼン様の盾は──まだ折れていない」
兵士たちの間に、電流が走った。
後退しかけていた足が止まった。剣を手放しかけていた手が、再び柄を握った。
グリゼルダは知っていた。
正確には──知り始めていた。
ヴァルゼンが、自分が畏怖するほどの戦闘力を持っていないことを。あの怯えが演技ではないことを。あの震えが本物であることを。
旅の中で、少しずつ気づいていた。武人の直感が「この方は強者だ」と告げる一方で、理性が「何かがおかしい」と囁く。剣の構えを知らない。攻撃の気配がない。殺気ではなく、あれは──本物の恐怖だ。
それでもグリゼルダは剣を置かなかった。
強さに仕えていたのではない。
いや──最初は確かに強さへの畏怖だった。戦場で培った直感が「この方には逆らえない」と告げた。それが出発点だった。
しかしいつの間にか、それは別のものに変わっていた。
怯えながらも仲間を庇おうとする姿。震えながらも前に出ようとする背中。力のない手で──それでも世界を繋ごうとする意志。
グリゼルダの部隊が壊滅したとき、自分に足りなかったのは力ではなかった。仲間を信じる力だった。一人で全てを背負い、判断を誤り、撤退命令を出すのが遅れ、全員を失った。あの日の後悔が、今もグリゼルダの中にある。
ヴァルゼンは違う。
弱いからこそ、仲間を信じている。弱いからこそ、一人で抱え込まない。みんなの力を借りて──繋ぐ。
それが──グリゼルダが探していた答えだった。
強さだけでは守れない。だから──弱き者の盾になる。
歪みの怪物がまた来る。今度は三体同時。地面を砕きながら突進してくる。
グリゼルダは大剣を構えた。
もう右腕はまともに動かない。だから左手を添え、両手で柄を握る。左肩の傷が叫んでいる。無視する。
「この防衛線は、私が守る!」
声が戦場に響いた。
満身創痍の女騎士の叫びが、東の防衛線全体に轟いた。
「魔王様が繋ぐ、その時まで!」
兵士たちが応えた。
「グリゼルダ様に続け!」
「盾は折れていない! 我らもまだ立てる!」
東の防衛線が息を吹き返した。
一人の騎士の意地が、崩壊しかけた戦線を繋ぎ止めた。
グリゼルダは三体の怪物に向かった。走った──というより、よろめきながら前に出た。足が重い。視界が暗い。
それでも──剣を振った。
一体目の頭を叩き割り、二体目の腕を切り落とし、三体目に体当たりして地面に組み伏せた。最後の一撃は剣ですらなかった。甲冑の肩当てで怪物の頭を殴りつけ、動きを止めた。
美しくはなかった。
武人の剣技としては最低の出来だった。形も型もあったものではない。
だが──守った。
グリゼルダは地面に膝をつき、剣を杖にしてうつむいた。
息が荒い。体が限界を超えている。血が口の中にまで上がってきている。
それでも──顔を上げた。
核心の方角。ヴァルゼンがいる場所。
見えない。距離が遠すぎる。でも──あの方が今も、目を閉じたまま立っていることは、わかる。
私にできることは──この場所を、守り続けること。
グリゼルダはもう一度立ち上がった。
何度でも。何度でも。




