ベリオスが到着したとき、南東の要所は壊滅寸前だった。
ベリオスが到着したとき、南東の要所は壊滅寸前だった。
防衛線は三度突破され、守備隊の半数が戦闘不能に陥っていた。指揮官は重傷で後方に搬送され、残った兵士たちが散発的に応戦しながら辛うじて時間を稼いでいたが、それも限界だった。要所の中心に立つ結界柱──魔力回路の中継装置──に亀裂が走っている。これが壊れれば、ヴァルゼンの再起動作業に直接影響する。
虚淵の歪みの怪物は大型化の一途を辿り、もはや通常の戦力では太刀打ちできない状況だった。
そこに──魔族の軍団が到着した。
「ベリオス将軍! 援軍です!」
守備隊の兵士が叫んだ。その声には、溺れかけた者が浮き輪を見つけたような必死さがあった。
視線の先に、巨躯の魔族が立っていた。
ベリオス。
魔族軍の元将軍。先代魔王の時代に「破壊の化身」と恐れられた男。身の丈は二メートルを超え、全身が筋肉の鎧のような体躯だった。額から天を衝くように伸びる巨大な角が二本。暗赤色の肌に走る古い戦傷が、彼の軍歴を無言で語っている。手にした戦斧は彼の背丈ほどもあり、常人なら両手でも持ち上げられない重量だが、それを片手で軽々と担いでいた。
「状況は」
低い声で訊いた。地面を揺らすような重低音。
「南東の結界柱が損傷しています。このままでは要所の魔力回路が完全に切断されます。修復は──戦闘中は不可能です」
「つまり、ここを守らなければ魔王の作業が止まる」
「は、はい。結界柱が破壊されれば、南東方面の魔力循環は復旧不能になります」
ベリオスは前方を見た。
歪みの怪物が群れを成して押し寄せている。中型が十体以上、大型が二体。結界柱を狙って直進している。この戦力差では、到着した魔族軍団──百名強──でも厳しい。
「将軍、危険すぎます。ここは一旦撤退して別の防衛線を構築し──」
部下の進言を、ベリオスは一睨みで黙らせた。琥珀色の瞳が刃のように鋭い。
「力だけの魔王には従わん」
突然の言葉に、部下が面食らった。周囲の兵士たちも困惑して足を止めている。
「し、将軍? 今何と──」
「先代の魔王。先々代の魔王。どちらも強かった。圧倒的に。天を割るような力を持ち、大地を砕く拳を持ち、万軍を率いるに足る威厳を持っていた。俺が仕えるに足る力を──持っていた」
ベリオスの琥珀色の瞳が、核心の方角を向いた。遠い。あの場所は見えない。しかしベリオスの目は確かに、何かを見ていた。
「だが──力がないのに立ち上がった魔王には、力を貸してやる」
戦斧を構えた。
巨大な刃が風を切り、ベリオスの全身から魔力が溢れ出す。赤い闘気が陽炎のように体を包み、大地が軋む。かつて「破壊の化身」と呼ばれた男の全力が、ここに解放されようとしていた。
ベリオスにとって──この言葉は、自分の半生を否定するものだった。
力こそが全て。強い者が正しく、弱い者は従うべき。それが魔族の──少なくともベリオスが信じてきた──摂理だった。先代魔王に仕えたのは、その圧倒的な力に惚れ込んだからだ。力以外の何かで主君を選ぶなど、考えたこともなかった。
ヴァルゼンが魔王位を継いだとき、ベリオスは軽蔑した。こんな弱い魔王に仕える意味はない。一度は離反しかけた。
だが──旅の中で、ベリオスの「力」の定義は少しずつ書き換えられていた。
ヴァルゼンは弱い。
弱いのに──怯えながらも仲間を庇う。震えながらも前に出る。ゴブリンの安否を気にかけ、敵ですら殺さずに済む方法を探す。
力ではない。力とは呼べない。
しかし──それで、人がついてくる。それで、世界が変わる。
認めたくなかった。
力の信奉者として、そんなものを「力」と認めることは自分の半生を否定することだった。四百年──いや、ベリオスは二百年少ししか生きていないが──自分の人生を支えてきた柱を崩すことだった。
だが──否定しきれなかった。
あの魔王は弱い。
弱いのに、誰よりも多くの者を立ち上がらせた。力で従えるのではなく、弱さで人を集めた。矛盾している。だが──目の前で起きている。
「全軍、俺に続け! 南東の要所は──俺たちが守る!」
ベリオスが走り出した。
大地が揺れるような足音だった。巨体が加速し、歪みの怪物の群れに正面から突っ込む。兵士たちが圧倒されて後退した場所を、一人で突き進む。
戦斧が唸った。
一振りで中型の怪物が三体まとめて薙ぎ払われ、黒い飛沫が宙を舞った。衝撃波で周囲の地面が抉れる。返す刀で別の一体を叩き潰し、そのまま蹴りつけて吹き飛ばす。吹き飛んだ怪物が後方の仲間を巻き込んで転倒する。
圧倒的な暴力だった。
力の信奉者にふさわしい、純粋な破壊。一人の戦士が、十体の怪物を蹴散らしている。
大型の歪みの怪物がベリオスに襲いかかった。城壁ほどの体躯が影を落とし、巨大な腕が振り下ろされる。衝撃で空気が震える。
ベリオスは戦斧で受け止めた。
衝撃で足元の地面が蜘蛛の巣のように砕け、膝が沈む。だが──止めた。腕一本で、怪物の全体重を支えている。
「ぐ、おおおお……!」
歯を食いしばり、全身の魔力を爆発させる。赤い闘気が噴き上がり、地面の亀裂から光が漏れる。戦斧を押し上げ、怪物の腕を弾き返した。
そして──渾身の一撃。
戦斧が弧を描き、怪物の胸を真っ二つに切り裂いた。黒い体が左右に割れ、大地に崩落する。地響きが周囲に広がった。
二体目の大型が来た。
ベリオスは振り返りもせず、背後から近づいた怪物の足を薙ぎ払った。バランスを崩した怪物の頭に、戦斧の柄を叩き込む。
鈍い音が響いた。
怪物が倒れた。大地が揺れた。
南東の要所は──守られた。
ベリオスは戦斧を地面に突き刺し、息を整えた。
周囲の兵士たちが──人間も魔族も──呆然とベリオスを見つめていた。
「す、すげえ……」
「あれが破壊の化身……」
「力がないのに立ち上がった魔王に力を貸す、って……あの将軍、泣いてるのか?」
「泣いてないだろ。あんな顔で泣くか」
泣いていなかった。ベリオスは泣かない。ただ──額に汗が光っていた。それだけだ。
遠くで見ていたエルヴィンが、戦闘の合間に一瞬だけ南東の方を向いた。ベリオスの活躍を魔力の波動で感じ取ったのだろう。
「ベリオスのデレが完成したぞ……!」
嬉しそうに呟いて、すぐに自分の戦闘に戻った。
ベリオスは戦斧を引き抜き、核心の方角を見た。
あの場所に──力のない魔王が立っている。目を閉じて、世界を繋いでいる。
力がないのに。
それでも立ち上がった。
ベリオスは何も言わなかった。
ただ核心の方角を向き──深く、一度だけ頷いた。
それは、力の信奉者が初めて見せた──力なき者への敬意だった。




